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アルプススタンドのはしの方

長い梅雨が明けてやっと夏が来ました(コロナ禍であっても夏は来るのだ。素晴らしい。)。日本の夏の風物詩のひとつに甲子園というのがありますが、あらかじめ終わりが設定されているドラマとして青春映画の題材としてよく使われます。正しくそれをモチーフにしながら野球の試合シーンを一切描かなかった青春映画『アルプススタンドのはしの方』の感想です。

えー、このところ青春映画ばかり観てますが、なんでしょう、この先が見えない状況がそうさせるのでしょうか。アメリカの南北戦争時代を描いた『ストーリー・オブ・マイライフ 私の若草物語』、韓国の90年代を舞台にした14歳の少女ウニの物語『はちどり』と来て、今回はいよいよ現在の日本の高校生たちの物語なんですが、これ、もともと原作が高校演劇の演目だったそうなんですね。兵庫県立東播磨高等学校の演劇部の顧問の先生が書いた戯曲で、2017年の全国高等学校演劇大会で最優秀賞を受賞してる作品なんです。つまり、主に高校生が高校生に見せる為に作った作品だったんです(少なくともそれ以外の年齢の人に共感してもらうことを想定して作られてはいないわけです。)。そのリアルさっていうか。セリフひとつひとつの狙ってなさというか、要するに無理にひとりひとりに高校生っぽいキャラ付けがされてなくて、その自然さが心地良いんですけど、この心地良さっていうのがまずは映画を支配するんです。

自分たちの高校の野球部が甲子園に出場するというので応援に来た演劇部の安田あすはと宮田ひかる。このふたりはそもそも野球に興味がないということで、応援団からも少し離れた端っこの方に陣取って、自分たちとは関係のない、高校生活で必ず注目される野球部の存在についてあーだこーだ言い始めるんです。この夏休みの午前中に特にやることもないのて言われるままに野球部の応援に来たけど、はしの方で文句言ってるこの心地良さね。正しくはしっこの居心地の良さなんですけど、これ、この時点で「ああ、これはオレの知っている青春だな。」と思うんですよね(僕、過去の自分を羨ましく振り返ることってほとんどなくて、今が最高と思う方なんですが、この夏休みの無駄遣い感には「ああ、このどうでもいい時間をまた味わいたい。」と思ってしまいました。時間を無駄遣い出来るのはモラトリアムのひとつの特権だなと。)。で、ここにもうひとり藤野富士夫っていう男の子が加わるんですが、この子は元野球部なんです。野球部でピッチャーだったんです。でも、野球部にはもともと園田くんていう凄いエースがいて、このままでは高校三年間マウンドに立てることはないなと見切って野球部を辞めているんですね。アルプススタンドのはしの方に来ているのはその負い目からというわけなんです。で、更に宮下恵という女の子もこの“はし“にやって来るんですが、彼女は頭が良くて学年で常に一番の成績を取っている様な子なんですね。けど、なぜかひとりで野球部の試合を観に来ているという。この微妙に立場の違う4人がそのそれぞれ興味がなかったりあえて距離を置いたりしている野球というものをよりしろにして自分たちの心の内を吐露していくって話なんです。それをなんの誇張もない高校生の会話でやるんです。この映画はほんとにそこが凄かったんですが、最後まで会話はほんとに何の変哲もなくくだらなく。ただ、それが伏線になり、試合の解説になり、いわゆるドラマを作って行くんですね。それが、心地良くてスリリングなんです。

だから、最初は共感なんです。例えば、「しょうがない。」が口癖の演劇部の安田さんは、とても快活で自分の立場をわきまえてて、文句言いながらも高校生活を楽しんでる様に見えるんですけど、でも、このどうでもいい会話の中で、彼女が抱える部活に対する悔しさみたいなものが見えてくるんですね。安田さんたちは3年生で去年の高校演劇の地区大会を通ったんですが、全国大会の当日に部員にインフルエンザが発覚して棄権せざるを得なくなるんです。そのことに対して彼女は「しょうがない。」と受け入れるんです。じつは高校演劇の大会というのはちょっと変わっていて、今年やった地区大会の全国大会が行われるのは次の年なんですね。なので、去年2年生だった彼女たちにとっては最後の全国大会出場のチャンスだったんです(こういうシステムの違いからも彼女が野球部を嫌悪している理由が分かるんですが。)。このどうしょうもない状況の中で、その事実を「しょうがない。」と受け入れるのは生きて行く上で必要なことだし、それによって彼女自身も腐ってしまってるわけじゃないし、ある意味彼女は人生において大事なことを学んだんだと思うんですよ。一方、元野球部の藤野くんにしても、圧倒的な力の差を認めて、その場を退くことで他の道が開けるかもしれないというのは大人の世界ではあることだし、ある意味ポジティブな選択とも言えるわけです。そういうことを受け入れて生きている彼女たちに間違っているとは言いたくないじゃないですか。その選択にだって素晴らしい未来が待ってると言ってあげたい。でも、高校生が高校生を見る視点で書かれたこの物語はそうじゃなかったんですよね。

主要人物としてこの4人の他に、茶道部の顧問なのに野球部の応援にうざいくらいに一生懸命(その一生懸命さを周りに要求する。)な先生と、野球部のエース園田くんと付き合ってて、勉強も出来て、ブラスバンド部の部長もやってる(要するにリア充キャラの)久住さんというふたりが登場するんですけど、えーと、要するにこのふたりは、”はし”に集まる4人に相対する役柄なわけですね。”はし”に対して「いや、お前ら次第で真ん中になれるんだ。」ということを強要してくる先生と、正しくスクールカースト的に頂点、そのサークルの真ん中に存在する久住さんという。だから、このふたりは適役ではあるんです。あるんですけど、このふたりのキャラクターもちゃんと掘り下げられるんです。で、このふたりは映画オリジナルのキャラというか、もともとの戯曲にも登場はするんですけど、存在として話の中に出て来るだけで実態としては現れないらしいんですね。それを映画では実際の俳優が演じて存在させることで、要するに(アルプススタンドのはしに集まる人たちだけではない)世界というものを際立たせていると思うんですよ。ここでそれを際立たせることで、この後この映画の中で起こる”世界の反転”というのをより強烈に印象付けてるんです。

えー、その“世界の反転”というのは何なのかというとですね。もともと映画序盤では、アルプススタンドのはしの方がはぐれ者たちのユートピアとして描かれるわけなんですが、それが段々と世界の真ん中とも繋がっていたんだということが(ウザい先生やリア充の同級生の出現、本人たちが語る過去のわだかまりや後悔によって、)分かってくるんですね。で、最終的に、この"はし"こそが世界である(先生や久住さんの存在を認める。)ということが起こるんです。つまり、世界(他人)の存在を認めることで、自分たちのいるべき場所を見定めるというか、自分たちの居場所を獲得することで世界(他人の存在=野球の試合)を見る余裕が出て来るってことを言っていて、それは彼女たちがアイデンティティを獲得したってことなんですよね(青春映画の感想で必ず言ってますけど、アイデンティティを獲得する映画が青春映画なんです。)。で、ここがこの映画の素晴らしいところだと思うんですけど、この成長をほとんどシリアスにならずに、序盤のリアルな高校生たちの駄弁りとアルプススタンドのはしの方というワンシチュエーションのままでやるんですよ。だからこそ、あの頃自分たちが見ていた世界というのが、今のこの世界と繋がっていたんだなというのを改めて思い知らされるし、自分の青春期のダメなところも熱いところも、17歳のあの夏に経験したこととして思い出させてくれるんですよね。

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