見出し画像

【映画感想】アメリカン・ユートピア

2018年にリリースされたデヴィッド・バーンのソロ・アルバム。そのツアー内容を2019年にブロードウェイのショーとして作り直したものを、更にスパイク・リー監督で映像化したライブ映画『アメリカン・ユートピア』の感想です。

デヴィッド・バーンのライブは過去に一度だけ観たことがあって、2009年に『Everything That Happens Will Happen Today』というアルバム(ブライアン・イーノとの共作ですね。)を出したタイミングでのツアーで、今でも割と好きなアルバムなんですけど、この時はその出来がどうというよりも、ツアーで往年のトーキングヘッズの曲を演奏するってことで。ヘッズファンでありながらライブを体感したことのない僕にとっては、トーキングヘッズの曲が生で聴けるということの方が重要で。だから、ほぼそれ目当てで行ったんですね。で、もちろん『burning down the house』や『Once in a life time』がライブで体験出来たのは最高だったんですが、じつはそれ以上に、このライブ自体から受けた衝撃の方が大きかったんです。

何がそんなに衝撃だったのかと言うと、まず、ステージにセットがない。ロックバンドのライブにありがちな派手な照明もない。バンドの構成は『ストップ・メイキング・センス』の時と同じようでありながらステージ前方が大きく空けられていて、バンドメンバー以外に3人のダンサーがいて、そのダンサーとデヴィッド・バーン本人(たまに他のメンバーも)が曲に合わせてコンテンポラリーダンスやフォーメーションダンスの様なものを踊る仕様だったんです。つまり、なんの煽りも、演奏的な即興性も、観客の気持ちをアゲる様な演出もないのに、100%決まりごとのパフォーマンスにむちゃくちゃ踊らされたんです。クラシックとか演劇とかバレエの公演なんか観ていて、その完璧さに圧倒はされることはあっても、まず、踊らされることはないじゃないですか。でも、このライブの時は、頭は今目撃してるものを処理しようとフル回転しているのに、それとはまるで別に身体が勝手に動いてしまうって感じだったんです。頭と体が自分の思いを超えて反応してると言いますか。圧倒されながら解放されてる感じだったんです。だから、コンサートや公演ではなく圧倒的に"ライブ"だったんですが、それまでに経験したことない不思議な感覚のライブだったんですよね。

で、その2009年の来日公演と、1984年に公開されたライブ映画の最高傑作と言われているトーキングヘッズの『ストップ・メイキング・センス』(ジョナサン・デミ監督です。今回のスパイク・リーといい先鋭的な監督を起用しますよね。)。そのふたつを経て、そこから何が変わったのかというのが『アメリカン・ユートピア』の個人的な見どころでもあったんですが、やはり、2009年のライブが、根幹にあるものは『ストップ・メイキング・センス』と同じで、そこから時代の変化による読み換えがされてるなと感じた様に、今回の『アメリカン・ユートピア』も、2020年版の『ストップ・メイキング・センス』と言いますか、基本的にはその頃と同じことを言っていて、それが1984年から蓄積されて来たデヴィッド・バーン自身の経験によって言い換えられていると言うか、たぶん、デヴィッド・バーンがトーキングヘッズの頃からずっと歌ってるのって「アメリカ白人の夢(とそれに伴う現実)」なんですよね。それを『ストップ・メンキング・センス』では、シニカルさ100%の演劇仕立てで、2009年のツアーでは、曲それぞれの解釈というよりは、各々の曲を並べた時にひとつの思想になる(それをダンスで繋げる)様な見せ方になり、更に今回の映画では、人間以外の要素を削れるだけ削って、その代わりにMC(つまり言葉による解説)が増えてるという。要するに、どんどん分かりやすくなってるんですよね。デヴィッド・バーン自身も、『ストップ・メイキング・センス』の時は観客と一切コミュニケーションを取らない様なシニカルさだったんですが、今回はとてもフレンドリーでにこやかな噛んで含める様な説明をしていて(しかし、そのフレンドリーさにサイコ味を感じないこともないところがデヴィッド・バーンのデヴィッド・バーンたる所以で、好きなところなんですが。)。個人的には、観客無視でやっていた頃よりも、にこやかに説明してくれてるこっちの方がなんかヤバイなと。デヴィッド・バーンよ何考えてるんだと。で、そのヤバさの根源みたいなものを映画終盤で客席が映った時に感じたんですよね。

えー、だから、なぜスパイク・リーだったのかというのにも関わってくることだと思うんですけど、ステージ上のメンバー11人はみんな移民で、かく言うデヴィッド・バーン自身もスコットランドからの移民だと紹介するくだりがあって、その後、ブラック・ライブス・マターのことを歌ったジャネール・モネイの「Hell You Talmbout」のカバー(警官に不当に殺された人たちの写真を持った遺族の映像がインサートされます。)があるんですけど、その後に観客席が映ると、フロアにいるのはほぼ白人なんですよ。そりゃ、「白人の夢(とそれに伴う現実)」を歌ってきたデヴィッド・バーンですから、その対象の人たちにファンが多いのはそうなんですが。それまで踊り出さんばかりな気分で観てたのに、その客席が映った瞬間に何か引っ掛かるものを感じたんです。たぶん、ここにはデヴィッド・バーン自身が言ってる「アメリカは移民の国だ。」っていう現実も、「殺された人々の名前を叫べ」と歌われてる対象の人もいないんですよね。で、僕自身も「あ、オレはここにはいないな。」と感じたんです。『ストップ・メイキング・センス』の時は、いつかこの場所に行ってみたいと感じていたのに、『アメリカン・ユートピア』では、ここには自分の居場所はないんだなと感じたんです。で、これは(どちらかというとスパイク・リー監督の考えかもしれませんが、)どう考えたってわざとだと思うんですよ(あの流れであの客席が映された映像をインサートするということは。)。だから、デヴィッド・バーンは、言葉では"アメリカの理想郷"を語りながら、画では"アメリカの現実(格差とか差別とか、リベラルな言葉は結局リベラルな人にしか届いていないんじゃないのかみたいなこととか。だし、タイトルの『アメリカン・ユートピア』にしたって、"アメリカの理想郷"が"世界の理想郷"なわけはないんですよね。だから、あのタイトルのロゴは逆さまなのかもしれません。)"を見せたのではないかなと思うんです(いや、実際にそうじゃなかったとしてもそう見えてしまうということが重要だと思うんです。だって、デヴィッド・バーンの言ってるユートピアとは、黒人も黄色人種も白人も全ての人種の人たちが一緒にあの会場にいられる状況のはずなので。)。で、それはその渦中(ライブ会場)にいる時には分からないけど、映画(世界)というカメラで一歩引いたところから見ると明白になるという。『ストップ・メイキング・センス』の頃から比べるとデヴィッド・バーンのものの見方ってどんどん俯瞰的になっていってるなと感じていたんですが、"アメリカの現実"を見せながら"アメリカの理想郷"を語るという滑稽さを俯瞰で見せてるのがこの映画であり、確かに、このシニカルな滑稽さこそがデヴィッド・バーンだったなと思いました。

いや、ほんとに、ここまで含めての圧巻のショーであり、めちゃくちゃ見応えのある映画だと思いました(爆音上映やるらしいのでもう一回行きたいと思ってます。コロナが収束したらスタンディングで声出しありの上映やってもらいたい。ほんとに踊りたくなる映画なんです。)。

※あ、そして、『アメリカン・ユートピア』はPODCASTの『映画雑談』の方でも取り上げることになりました。更に深掘りしようと思ってるのでアップされたら是非聴いて下さい。


この記事が参加している募集

#映画感想文

66,651件

サポート頂けますと誰かの為に書いているという意識が芽生えますので、よりおもしろ度が増すかと。