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この世界の(さらにいくつもの)片隅に

2016年に公開されてから途切れることなく上映され続けて来た、こうの史代さん原作の漫画を片渕須直監督がアニメ映画化した『この世界の片隅に』に、約38分(250カット以上)の新エピソードを追加して製作された長尺版。完全版とか新解釈版とも違う、ほんとに言うなれば"さらにいくつもの"版というところでしょうか。『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』の感想です。

えー、3年前の11月に公開された『この世界の片隅に』は、公開されて割とすぐ(まだ、最初の公開館数63館)の時に観ていて。かなりの衝撃を受けたんですが、何か強いインパクトでやられたというよりは、なんて言うか、全く触れられてもいないのに気づいたら痣だけが残っていたみたいな、そういう感覚の映画だったんですね(もちろん、ストーリーの中に衝撃的な展開はあるんですけど、その展開の衝撃度でやられたのではなく、どちらかというと、それを日常のものとして感じてしまったことに衝撃を受けたみたいな感じだったんです。)。今まで映画でそういう感覚を得たことがなかったので、僕にとってかなり強烈なインパクトで、その後3回映画館に行って、行く度に打ちのめされていたんですが(その時の感想です。)、その衝撃は今回の"さらにいくつもの"版を観ても大枠のところでは変わらなかったんですね。ただ、映画が言おうとしていることは同じでも、そのニュアンスが違うというか。前の映画では、物語がそこに行き着いたという事実を見せられて、その事実が今まで自分が思っていたのとは違っていたというのを感じるのが心地良かったんですが、今回は、更にその裏にある想いみたいなものを見せられた様な映画だったんです。で、それはある種困惑でもあったんですよね。

では、まずは元となる『この世界の片隅に』がどういう映画だったのかというと、物語のメインとなるのは昭和19年(1944年)の広島県呉市で、そこに嫁いで行く(のんさん演じる)すずさんという18歳の女性の日常を綴った言ってみればホームドラマなんです。で、そのホームドラマの何が衝撃的だったのかというと、映画のメインの舞台となる1944年から1945年というのはちょうど太平洋戦争の真っ只中から終結に向かう時で(1945年の8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が落とされ、8月15日の玉音放送によって日本が降伏して終戦を迎えることになります。)、すずさんの生活を追うということは自ずと物語はそこに収束して行くことになるわけなんですね。つまり、そこでのすずさんの生活を見ることが、同時に(今まで考えたこともなかった)戦争の悲惨さや狂いっぷりを見るってことになって、すずさんの日常を通して初めて自分の人生と地続きなところにある戦争を実感することになったんです。で、この『この世界の片隅に』は、そういうことを伝える映画としては完璧なバランスだったと思うんです。

はい、で、その完璧さを崩してまでも(僕はこの『さらにいくつもの』を観てそう感じました。)追加したものは何だったのかというと、すずさんという"人の複雑さ"だと思うんです。そもそも前の映画の時から、戦争っていう人を個ではなく集団として見る様な事象を描くのに、すずさんという個、そのキャラクター性にクローズアップして描いていて、そうすることで戦争っていう今まで自分の生活とは全く切り離して考えていた(でも、確実に存在している)事柄を自分ごととして感じさせてくれたわけですけど、それは映画を観た沢山の人がすずさんに自分を投影したからだと思うんですね。例えばそれは、こんな惨事の中、それでもぼんやりしている姿だったり、日々の生活を楽しむ姿だったり、もしくは、爆弾が爆発している空を見て趣味の絵を描くことを思い出している姿だったかもしれないんですが、今回の映画を観て、これってある程度共感しやすい距離感で描かれていたんだと思ったんですね。すずさんという人はこういう人というのを分かりやすく提示する為に敢えて人間が持ちうる複雑さを描かなかったというか。ある意味、こうあって欲しいすずさんになってたんだと思うんですよ。でも、人間てそんな単純なものじゃなくて。前作ですずさんが出した様々な答え、そこに辿り着くまでにどんな心の動きがあったのか、それを描いたのが今作なんだと思うんです。

具体的に遊郭で働くリンさんとのエピソードが追加されてるんですけど、これってすずさんの恋愛と友情の部分を担ってる話なんですよね。つまり、家族や幼馴染には見せないすずさんの姿なんですね。で、それが追加されることによって、それ以外のシーンのセリフの意味とか、すずさんの行動のニュアンスなんかがかなり変わって見えてくるってことになっていて。一番顕著なのは幼馴染の水原哲がすずさんが嫁いだ家にやって来るシーンと、そのことで夫の周作さんとケンカになるシーンなんですけど、前の映画の時はすずさんの子供っぽさというか、純粋さから来てるエピソードだと思ってたんですね。けど、今回の映画では、すずさんが水原や周作から言われていることを全て理解した上で飲み込んでいたってニュアンスに見えるんです。すずさんの行き着いた答えに変わりはないんですけど、その意味が変わって見えるんですよ。で、ここまで直接的ではないにしろ、言ってみれば映画全体のすすざんの行動に対するニュアンスっていうのが今回のエピソードが入ることによってちょっとづつ変わっていてですね。例えば、「笑顔の容れ物」ってセリフも、前の映画の時は、水原に言われた「すずはずっと変わらずにいてくれ。」ってセリフを受けてのそれだろうと思っていたし、義理のお姉さんの径子さんに対して「ここにおらして下さい。」って言うのも、径子さんの優しさに触れて自分の間違いに気づいたからだと思ってたんです。つまり、すずさんの素直さから来るセリフだと思ってたんです。そしたら、それらが全部そんな単純な話じゃなかったってことになっていて。中でも僕が一番「ああ、そうだったんだ。」って思ったのは、最後のシーケンス、戦争孤児になった女の子を広島から呉に連れて帰るシーン。それまで僕は晴美さんに対する罪滅ぼしの意味でこのシーンがあるんだと思ってたんです。あと、単純に " 子供=未来への希望 " という意味で(だから、ちょっと違和感があったんですね。別の子を連れて来ることで晴美さんへの想いが薄れてしまうんじゃないかって。)。だけど、今回の映画を観たら、やっぱりここも大きくニュアンスが変わってるんです(いや、変わってるというか本来の意味が見えて来たというか。)。恐らくすずさんは、母親を失って居場所がなくなったあの子に、リンさんやテルさんやすみちゃん、戦争で居場所がなくなった全ての人、そして、何よりも自分を投影していたんだと感じたんですよね。すずさんが「笑顔の容れ物になる。」って言ったことがどれだけの覚悟だったのか。戦争が終わったと聞いた時の憤りがどれほどのものだったのか(それをあのぼんやりしたやわらかい表情で言っていたのか…と逆に。)。

すずさんの心の経緯を知ることが前作の答え合わせでも補完でもなくて、元から人が持ってる複雑さや歪さ(だから映画自体は前作よりも歪になっていると思いました。でも)、それがあるからこそこの物語はここに着地したって解釈になっていて、それがとても面白かったんです。

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