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トイ・ストーリー4

はい、フルCGアニメーションとして世界で最初の作品であり、今やその社名だけでも観に行く人がいるピクサーの第一弾映画として誕生した「トイ・ストーリー」。そこから4年後の「トイ・ストーリー2」、更に9年後の「トイ・ストーリー3」で一旦幕を閉じたはずだったんです。しかも、観た人誰もが納得するだろうという完璧な幕引き。そこから更に9年経った今年。いや、これは作られただけでも奇跡だったんじゃないかと思います。あの完璧なラストのその後を描く「トイ・ストーリー4」の感想です。

えーと、凄い作品でした(間違いなく傑作。ていうか、それでは足りない位の大傑作だと思います。)。たぶん、思ってる以上に映画のラストのセリフにやられたんだと思うんですけど、観た直後からずっと頭の片隅でその問いの答えを探してるみたいな状態になっているんですよね。あの最後のセリフ(映画の根幹を成していて、それでいて全てをぶっちゃけてる様なセリフなのでここでは書きませんけど。)を問う為に今までの「トイ・ストーリー」があったのだとしたら(恐らくそれはないと思いますが。)と考えると、この映画の後のウッディは、バズは、一体どんな生を送るんだろうかと考えてしまうんです。その位複雑で大胆な物語だったんですよね。今回の「トイ・ストーリー」。

いつも青空で始まっていたアヴァン・タイトルが夜のシーンで始まるところから不穏な空気が流れ始めていたんだと思うんです(シリーズ全体を通しても夜景のシーンてほとんどないと思うんですよね。「1」のピザプラネットに行くシーンくらいじゃないですかね。)。その不穏さをずーっと通奏低音の様に抱えながらストーリーは進んで行くんですが、今回の主役はウッディなんです。いや、今までも主役はウッディだったんですけど、これまではあくまでオモチャたちのリーダーという役割としての主役で、語られるのはオモチャとしての存在、オモチャとしての幸せであり生き方だったんですね。で、正しくウッディのアイデンティティというのが、その"オモチャとして"(つまり、「子供に遊んでもらう」)ということだったので、ウッディを描くことが=オモチャを描くということになってたんですけど、ただ、オモチャに(自己というものを考えるきっかけとなる)" 自我 " を与えたのはこの映画の創造主である(「1」の監督の)ジョン・ラセターなわけじゃないですか。そうして誕生したキャラクターに「子供に遊んでもらう」という役割(仕事)を加えて出来た物語が「トイ・ストーリー」なんです。だから、「オモチャとはこういうもの。」というのは他人から与えられた思想だということで。「1」〜「3」まではその思想(「オモチャの幸せは子供に遊んでもらうこと」)を貫くことで物語が成立してたんですね(例えば、その思想を揺るがす様な「2」のプロスペクターや「3」のロッツォなどの存在が現れても。)。けど、それは生まれたばかりの小鳥が最初に見たものを親と思い込むみたいなもので単なる刷り込みなんですよね。では、その刷り込みをウッディはなぜ何の疑いもなく信じられたのかと言うと、アンディという決して裏切らない精神的支柱があったからなんです。でも、アンディは大人になってもう去ってしまった(この、" 子供はいつか必ず大人になる " ということ。つまり、アンディとの別れが「3」の大きなテーマだったんですけど、それを近所の女の子のボニーにオモチャたちが全て引き継がれるということでその思想自体を変えずに物語を終わらすことが出来てたんです。)。だから、アンディという精神的支柱を失ったその後、ウッディがどうなるのかというのを描かないで何が自我だよってことなんじゃないかと思うんです。あの、「トイ・ストーリー」ってじつは壮大な実験の映画なんですよ。"オモチャに自我を与えたら"っていう。で、自我というのは"自分とは"ってことなので、"オモチャとは"っていう意味では「3」で(アンディとの関係性という中で)終わっているんですけど、じゃあ、" ウッディ(自分)とは何なのか? " というのをやらないと終われないというのが今回の「4」なんじゃないかと思うんです。

で、それってつまり、あの完璧と言われた「3」は、ある特定の思想の中だけでの完璧さだったってことを言っていて。ウッディにとってのほんとの幸せというのは"オモチャとして"を超えたところ(つまり、アンディと別れた後)にないといけないんじゃないかという。それをその思想を与えた(ピクサー)本人が言ってるってことなんです(だから、自分で創造した世界を自ら疑うっていう、作者としてはとても誠実なことをやってるんですけども。)。でも、本来はそんなことする必要なんてないんですよ。だって、そもそもフィクションのキャラクターというのは創造主から与えられた思想のみで作られるものだし(それはオモチャという現実の存在もそうなんです。だから、既に現実にあるものが虚構として成立しているのに、それに自我を与えたってことは、虚構を実体化したものを更にフィクション内現実として描き直すみたいなことになっていて。そもそもの構造が複雑なんですよね。「トイ・ストーリー」って。で)、フィクションの中でそれを追求してしまうと「"存在する"とは何か。」ってこと(つまり、現実世界のオモチャとしてと、「トイ・ストーリー」内でキャラクター化されたオモチャとしての両方の存在意義)まで考えなきゃいけなくなるので、ほんとに面倒なことになるんですね(だから、「3」で終わっといてくれたらという人の気持ちは良く分かります。)。ただ、それをやるのがピクサーだし、物語として完璧に終わることなんてないんだ(ひとつの思想だけで閉じてしまった世界は完璧ではあるけど、それは欺瞞なんじゃないのか。)っていうとこまで行ってしまうのはとてもピクサーらしいなと思うわけです(なので、今回の映画観終わった直後の感想は「複雑過ぎる。」だったんですよ。世界が何重構造にもなって、一体自分がどの次元で映画を観てるのか分からなくなるんですよね。こんな映画体験したの初めてでしたけど。)。

ということで、ウッディが"オモチャとして"という信仰から解き放たれるのが今回の物語なんですが、だからといってこれまでの思想を完全否定しているわけでもなくて。今回、悪役的な立ち位置で登場するギャビー・ギャビーっていう女の子の人形がいるんですけど(新キャラの中で個人的に一番お気に入りです。とても悲しいキャラクターなので。)、本来、ウッディの様に背中のヒモを引っ張るとおしゃべりが出来るオモチャなんですね。ただ、内蔵されてる音声ボックスが壊れていてそのせいでアンティークショップにずっと売れ残っている状態なんです(なので、ウッディの音声ボックスを奪おうとして敵対することになるんです。)。で、このギャビー・ギャビーがずっと夢見ているのが、いつも遊びに来るアンティークショップの孫娘のハーモニー、彼女に遊んでもらうってことなんです。つまり、ギャビー・ギャビーは"子供の側にいて遊んでもらう"ことが自分の幸せだと考えているんです。これまでの悪役がウッディとの思想の違いで対立してたことに対して、今回のギャビー・ギャビーは同じ思想を持ってるっていうキャラクターなんです。で、結果ウッディが彼女とどう対峙するのかっていうのが見どころなんですが(「2」のプロスペクターと「3」のロッツォに対して出来なかったことをしてあげるって意味もあると思うんですけど)、これ、今回のテーマでもあるそれぞれの価値を認めていくっていうのでもあるんですよね。

今回、ギャビー・ギャビーの他に、もともと(アンディの妹の)モリーの持ち物だった陶磁器人形のボー・ピープと、現在のウッディたちの持ち主のボニーが手作りしたオモチャのフォーキーが登場するんですけど、ウッディを含めたこの4人がそれぞれ主役の様な描かれ方をするんです(なので、より複雑になってるとこもあるんですが。)。えーと、要するに、この4人がそれぞれ違った思想を持ってそれぞれ違う生き方をしているんですね。例えば、「2」の後で違う家に貰われて行くことになったボー・ピープは、その後アンティークショップに売られ、そこでの生活に疑問を感じ映画の中で"迷子"と呼ばれる持ち主のいない野良のオモチャとして移動遊園地で暮らしているんです。これは今までの「トイ・ストーリー」の掲げて来た思想"オモチャの幸せとは子供の側にいること"、"持ち主との主従関係は絶対"というのとは真逆の考え方なんですよね。アンディの家を出た後に様々な経験をしてそこに行き着いたっていうことなんですけど(あ、だから、ボーがアンディではなく、妹のモリーの持ち物だったということがこの考え方に行き着いたことと関係しているかもしれません。モリーはアンディと違って、オモチャたちにとっての絶対神ではなかったので。)、要するにアンディの家がいかに安住の地だったか、そこから出てみたら世界は全く違っていたってこと(その中でどう生きて行くかってこと)を示していて、同じ様にアンディという安住の地から離れて初めて広い世界を知ることになるウッディに思想的な影響を与えることになるんですね。つまり、「スター・ウォーズ」的に言えばルークに対するクワイ・ガンジンみたいな役どころなんです(その関係性をラブ・ストーリーとして描いてるのも面白かったですが。)。で、もうひとり、ゴミから作られたオモチャのフォーキーなんですけど、こいつが凄いキャラだったんですよ。

えー、フォーキーは、保育園で上手く周りとコミュニケーションをとれないボニーが不安を解消する為にゴミから作り出した手作りのオモチャなんですね。だから、フォーキーには元の素材だった先割れスプーンとしての本能があるわけなんです。先割れスプーンとしては使われたらゴミとなり捨てられる(つまり死ぬ)のが使命っていう。そのDNAに刷り込まれた本能があるから、何度止めてもゴミ箱に飛び込んで自殺しようとするんです(ね、凄いキャラでしょ?)。で、ウッディがそれを諭してオモチャとしての存在意義を説くってことになるんですけど、それによってウッディの中で改めて"オモチャとは"(そして、自分はここまで何をしてきたのか)を考えるキッカケになってると思うんですね。つまり、フォーキーとはウッディにとって生まれたばかりの赤ん坊の様なもので、まだ、自分が何者なのか分かってない(自我の確立してない)相手に自分が生きて来た証を伝えるってことをやったんだと思うんですよね。あの、僕も親になって思ったんですが、自分が特に何かを成したわけでもないし、何の為に生まれて来たのかなんてことを考えるのももう辞めてしまってたんですが、子供が出来て、これからこの子に「世界とは何か。」、「生きるとはどういうことなのか。」というのを教えていかなきゃならないんだってなった時に、もしかしたら、自分はこれをする為に今まで生きて、様々なことに思いを巡らせて来たのかもしれないと思ったんですよね。つまり、「自分の使命はこれだったのかも。」と。だから、それを経てのウッディのあの決断だったら分かるというか。子供を育てることって、自分とは何者なのかっていうのを問い直す行為だと思うんです。

こうやって、ウッディと他のキャラクターたちとの思想バトルみたいな話になっていくわけですが、これが映像にリンクしてるところがやっぱりピクサーは凄くて。今回、特にオモチャたちの質感の表現が前作から比べても全然違ってて、ウッディはちゃんとソフビっぽいし、バズはプラスチック製で、ボー・ピープは陶器なんですよ。要するに今までよりもめちゃくちゃ現実感があるんです。個人的には、ちょっと違和感を感じるほどだったんですけど、これが何の違和感かと言うと、ウッディもバズもボー・ピープも「トイ・ストーリー」世界のキャラクターだったのに、あ、やっぱりこいつらオモチャなんだっていう違和感なんですね。いや、オモチャだってのは分かってるんですけど、ウッディが何で出来てるかまでは知らなくて良かったっていうか。んー、つまり、子供はいつか大人になり別れがやって来る。それは分かってるけど、その先の現実としてオモチャがどうなるかってところまでは見たくないっていう(もっと言えば感動出来るギリギリのところで止めておいてってことですね。それ以上フィックスしちゃうと現実見えちゃうからっていう。そう考えるとそもそも感動って何なんだって気もしますけど。)。でもですね、「トイ・ストーリー」ってオモチャ(虚構)に自我(現実)を与えるっていう実験なんですね。だからこそ、3DCG(完全なる平面の2次元でもなく、現実世界の4次元でもない。その間の3次元)で描くってことに意味があるわけで。つまり、今回の映画はより現実の解像度を上げたことによって、見えて来てしまったほんとのほんとにこの物語を構成してるもの(ウッディの素材はソフトビニールなんだみたいなこと)って一体何なんだってことをやっているんですよね。で、それって別にこれまでのシリーズを反故にしたわけでも真逆のことを言ってるわけでもなくて、ほんとは描かれていたけど見えてなかった部分なんですよ。で、それを見えない様に振舞っていたのはウッディ自身なんですよね。(オモチャたちのリーダーとして)ウッディ自身が見ないようにしてた世界が、今回描かれている世界なんだと思うんです。つまり、(そこを見せないことで)「3」で完璧にバランスの取れたラストを見せてくれたウッディに、今度は(そこを見せることによって)自由を与えようって話だったんです。

で、(ここまで書いて、今、分かったんですが、)そのことを一番分かってたのはやっぱりバズだったってことなんですね。分かってたからこそのあの最後のセリフ(「彼女は大丈夫だ。」)だったのか。だから、やっぱり最終的にはふたりの友情物語ってことで。「俺がついてるぜ」に間違いはなかったってことなんですね。傑作だと思いながらも話が複雑過ぎて観てる間(最初の回想で出て来る「3」のラスト以外)泣けなかったんですが、ここまで書いてきてやっと今感動して来ました。

https://www.disney.co.jp/movie/toy4.html

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