フェアウェル
なかなか不思議な映画でした。中国(東洋)とアメリカ(西洋)の文化の違いを"祖母の死"というシリアスなテーマを用い(どちらかというと)" 正しくなさ " で描いたヒューマンドラマ(でありコメディ)『フェアウェル』の感想です。
まず、どこが不思議だったかと言いますと、(これもまた)A24配給の映画なので、アメリカのインディペンデント系の映画なんですね。で、内容がN.Yで暮らす(オークワフィナ演じる)ビリーという中国系アメリカ人の女性が、余命3か月と診断された祖母に会う為に中国へ帰郷するという話なんです。なので、舞台になるのがほぼ中国なんですね。しかも、登場人物も中国系の人たちばかりで(ひとり、日本人の水原碧衣さんがビリーのいとこのお嫁さん役で出てますね。)。だから、画面上は中国映画みたいなんですけど、あまり中国の話って感じがしないんです。で、これは監督が中国生まれでアメリカ育ちのルル・ワン監督ということで、劇中のビリーと同じ様に中国にルーツを持ちながら中国を外側から見てる人だからだと思うんですけど、では、昨今のアメリカ・インディー的映画かというと、それもまた違う感じがするんです。(何回か前に感想書いたNetflix作品の『ハーフ・オブ・イット』もそうだったんですが、)どこの時代のどこの国の話とかいうよりも、誰かの頭の中に存在している思いのようなものを物語化したみたいな、寓話的で哲学的な話なんです。つまり、中国とアメリカのそれぞれの土地に根差した文化を、中国にルーツを持ちながらアメリカで育ったビリーを主人公にすることで、もっとふわっとしたどっちつかずの話にしてるというかですね。そうすることでどちらかの思想が正しいみたいな対立の話にしていなくて(最終的にはどっちも間違ってるという話になってると思いました。)。そこが個人的にとても良かったんですよね。
で、ストーリーは、余命宣告を受けたおばあちゃんに(その真実は伝えないまま)家族みんなを会わせる為に孫の結婚式をでっちあげるって展開になって行くんですけど、ビリーは結婚式をでっちあげてまでおばあちゃんに余命を伝えないことに疑問を感じるんですね。命はその人個人のもの。残り少ない命ならばきちんと本人に伝えて生を全うさせるべきではないのかと(なるほど、よく分かります。)。一方、中国の文化的思想を持つ親戚たちは、こんな年まで生きて今さらあなたの命は残り少ないですと本人に伝えることに何の意味があるのか。幸い身体も自由に動くし、残り少ない命ならば最後の時まで朗らかに機嫌良く生かしてあげる方が良いだろうと。で、そういういいわけのひとつとして、「中国では命は自分のものではなく家族みんなのもの」という思想があると言っていました。僕個人としては(僕が同じ東洋に住む日本人ということもあるのでしょうか。)、ビリーのいう西洋的な考え方よりも東洋的な"人間の命は自然の一部"という考え方の方がいくぶんしっくり来るんですね。うーんと、死はあくまで自らコントロール出来ないものであって欲しいんです。余命何か月ですよと伝えられたところでどうして良いのか分からないというか。逆を言えば常にいつ死んでも良いように生きたいんです。日常の延長線上に死というものが漠然とあって欲しいんです。死ぬときに笑っていようが、泣いていようが、怒っていようがどうでも良いと思って生きたいんです(命はそれぞれに与えられたものだとは思いますが、人によって長さも重みも違うのが面白いというか、全てがコントロール出来ないようになってるのが人生の面白みのように思っているんですよね。)。
で、僕はこの映画はそういう思想で作られてるんじゃないのかなと思ったんですね。というか、少なくともナイナイおばあちゃんはそうなんじゃないかと。つまり、おばあちゃんにとって死も生もさほど変わりはなくて、死に対する恐怖よりも煩わしさとか、あとは生に対する諦めの方が勝ってるんじゃないかと。だから、そうなると、個人の生きたい様にさせてあげたいなんて思いも、孫の結婚式をでっち上げてまで一族全員に会わせてあげようなんていう優しさも全ては余計なお世話。逆に言えばおばあちゃんの方が孫たちのエゴに付き合ってあげてるってことになるわけで。このやってること全部が余計なお世話ってところがこの映画をコメディにしてると思うんです。で、じつは、それが決定的に分かるのって映画の最後の最後、エンドロールの後なんです。
エンドロールの後に家庭用ビデオで撮った様なワンカットが入るんですけど、これがともすればどんでん返しにもならない、それまでの話が全部台無しになってしまうようなカットなんですね。このカットで何が分かるのかというと、映画の中で(具体的に)正しいことを言っていたのはナイナイおばあさんだけだったってことなんです(例えば、「薬を変えてもらったら体調がいい。」なんてことですね。このセリフの場合、そのあとにご丁寧に「自分の身体のことで嘘は言わない。」とまで言ってますからね。)。要するに、おばあさんに対する扱いとしてビリーも親戚たちも(つまり、死に対する東洋的な思想も西洋的な考えも)みんな間違っていたってことになるんです。更に(死というシリアスなテーマなだけに)、一体どっちの考え方が正しいのか、自分は死と正しく向き合えているのだろうか…なんて眉間にしわを寄せながら映画を観ていた僕たちの思いも全て無駄。やっぱり思想や文化(それによる違い)なんてものは生きてる人間にしか意味がなくて。そこに関しては死に直面した人間の直感に勝るものはないし、そこまで至ってない人間が何をどう考えても検討外れなことしか言えないんだなと思えて、そういうのがとても心地良かったんです。死なんていう(誰もが経験するのに誰も実態を語れない)ものに正しいも間違ってるもないというか、それに対して他人がいろいろ言うのはおこがましいですよね。
で、じゃあ、死をシニカルに描くことだけがこの映画のテーマなのかというとそうではなくて。祖母の死に直面して右往左往する家族の姿、その姿の滑稽さと、考えても意味のないことに対して(答えを出すのではなくて)ただただ思い悩むこと、それこそが(祖母に対する)愛であり生きるってことなんじゃないかなとも思うんです(死そのものは圧倒的なモノとして存在していてどうしようもないものと認めた上で、それに対していかに軽やかに生きるか。そこにこそ人が生きる意味があるんじゃないでしょうか。あと、やっぱり最近は正しさよりも正しくなさについて描かれた映画の方がグッと来るんですが、これはそういう映画だったと思います。)。
サポート頂けますと誰かの為に書いているという意識が芽生えますので、よりおもしろ度が増すかと。