子供たちに暴力を振るう父親を殺した母親が刑期を終えて15年振りに家族の元へ帰って来るという話。「凶悪」や「日本で一番悪い奴ら」や「虎狼の血」の白石和彌監督なので、メンタルやられる系の重い話なんだろうなと思って観たんですが、全然違いました(もちろんエグくて重い話ではあるんですけど。)。映画観ながらこういう感じの映画知ってるんだよなぁと思ってたんですが、一番近いのは「男はつらいよ」シリーズなんじゃないかと。凄いペースで新作を作り続けてる白石和彌監督の最新作「ひとよ」の感想です。
前回感想を書いた「ブライトバーン」が"子供なめるな"映画だとしたら、この「ひとよ」は"親なめるな"映画なんじゃないかと思うんです(「ブライトバーン」と「ひとよ」同じ日に観たんですけど、片や洋画のB級ホラー、片や邦画のヒューマンドラマという、何の接点もない映画同士にこういう共通項を感じるの、映画を観る醍醐味のひとつでもあるんですよね。全く違う時に全然関係ない映画観てて、前に観た映画の分からなかったシーンの意味が急に理解出来たりとかありますからね。じつは、この後に観た「殺さない彼と死なない彼女」も思春期の狂気を描いてるって点で「ブライトバーン」と同じ話だと思ったんですよね。)。田中裕子さん演じる母親の強さというか、子供と対峙する時の覚悟みたいなものが描かれていて、最近、人の親になった僕としてはともて勉強になりました。基本的には家族の絆を描いた映画なんですけど、それを表現するのに"夫殺し"っていうテーマを持ってくるのが白石監督っぽいなと。
白石監督の映画、これまでも普通じゃ理解し辛い立ち位置にいる人を描いて来たと思うんですけど、いつも、それに一手間加えるというか。例えば「凶悪」だったら、殺人犯とその事件を追う雑誌記者の精神状態の変化をサスペンスとして描いていたし、「日本で一番悪い奴ら」だったら、警察の汚職をひとりの警官のサクセスストーリーの様に描いていたんです。そういう一手間を加えて毎回違うニュアンスの作劇の仕方をするんですけど、そのベースには常に"人間"というのがあって。たぶん原作よりも各々のキャラクターの掘り下げ度合いが深くなってるんじゃないかと思うんですよ(原作はミステリー小説の「彼女がその名を知らない鳥たち」が、ミステリー要素よりもそれぞれのキャラクター自体に興味が行き過ぎて「あれ、ミステリー要素どこかにあったっけ?」って印象になってるのとか。そういうことだと思うんですよね。)。で、今回の「ひとよ」なんかは、母親が殺人犯ていう話をまるでホームドラマの様に撮っているんですね。ていうか、フォーマットは完全に「男はつらいよ」なんですよ。つまり(子供たちの為とはいえ夫殺しなんてことをやってしまう)、エキセントリックで自分勝手な母親が、15年振りにふらっと家に帰って来て、その母親のエキセントリックさに家族や近所の人々が翻弄されるという。それを家族側からの視点で描いているんです(家っていうのを中心にして、そこにいる家族視点で訪問者としての主人公を描くっていうのも寅さん的ですよね。たこ社長の印刷工場の様にタクシー会社が家に隣接されてますし。)で、この被害を受けている側からの視点で関係性を描くっていうのが家族って繋がりをフラットなものにしてると思ったんです。
このフラットさというか軽さ(というか、そういうところで繋がっていられるの)が家族ってことなんだと思うんですけど、そもそもそこを描くんだったら、家族同士の殺人なんて題材にする必要はないわけで。そのまま「寅さん」でいいんですよね。だから、こういう作劇の裏で何を語っているかってことが大事なんですけど(ここが白石映画の面白いところです。)。えー、つまり、こういう軽さで家族が繋がっていられるっていうのは、そもそも血っていうもうどうしようもない強い繋がりがあるからで、それを絶とうとした時に今度はその繋がり自体が呪いになるってことを言ってるんですよね。それを「寅さん」みたいな軽いタッチで描いてるんですよ。つまり、天使にも悪魔にもなりうる"絆"っていう概念をホームドラマとして描いてるんですよ。これが、なんか凄い面白かったんですよね。リアルなんだけど観念的でもあるというか。
で、これ舞台になってるのが茨城県の田舎町なんですけど、僕は実家が茨城にあって、今はもうちょっと開けてますけど、僕が育った子供時代にはほんとに何にもなくて。一生をここで過ごすなんて選択肢は小学生の頃からなかったくらいの場所なんです。で、その何にもないっていうのが文化的なことだけじゃなくてですね。田舎なんですけど、近くに山や海があるわけでもない平野なんですね(つまり、田舎としてのアイデンティティも希薄なんです。)。だから、もう、風景として何もないっていうのが一目瞭然というか、晒されてる感が凄いんですよ。外にいると何もないところにポツンと立たされている不安感みたいなのがあって、それが家に帰るとちょっと守られてるというか、そういう不安を食い止めてくれてる堤防みたいな感じがあったんですね。だから、そういう場所で家の中も地獄だとしたらって考えると。個人的には、母親が夫を殺してしまうのも、子供たちがなりたいものになりたいと強く願うのも凄くよく分かるというか、このロケーションが凄い説得力になってると思ったんですよね(その中で長女の松岡茉優さん演じる園子だけが街に馴染んでる感じも良かったんですよね。あの感じって女の人にしか出せないんじゃないかと思いました。母親の帰りを唯一受け入れる役なんですけど、あの土地に馴染んでる感じと帰って来た者を躊躇なく受け入れる感じがリンクして見えたんです。)。で、そうやって考えると、この映画って、リアルな部分とフィクションの部分の振り幅が凄く大きいなと思ったんです。例えば、佐々木蔵之介さんが演じる、この家族が経営してるタクシー会社に就職して来る堂下って人がいるんですけど、死んだ父親の代わりというか、佐藤健さん演じる雄二のトラウマを解放する為に出て来る役なんですね。で、じつは割とキーマンなのにその人物設定がかなりぶっ飛んでいるんです。まぁ、ない話じゃないんですけど、夫殺しっていう家族の元にこれまたこういう人来るかなって感じで、あまりリアリティがないんです(「寅さん」映画に高倉健さんがいつもの役で出て来ちゃったみたいな感じなんです。しかも、一升瓶抱えてタクシー暴走させるなんてシーンもあったりして。)。このリアリティのなさはわざとなんじゃないかって気もしたんですね。これ、一体何が言いたいのかというと、白石監督の映画ってノンフィクション物の映画化が多いんですけど、この話って完全なフィクションなんですね。僕はこの「ひとよ」って映画はフィクションをあえてフィクション的に見せるってことをしようとしてるんじゃないかと思ったんです。
映画は、母親が父親をタクシーで轢き殺して子供たちに「父さんを殺した。」って告げるシーンから始まるんですけど、子供たちが初めて画面に出て来るところで、例えば、次男の雄二は携帯用の録音機材で家の状況をレポートしてるんですね。これは雄二が大人になってから雑誌のライターになるってことを示唆してるんですけど、父親の暴力に怯えてる家であまりリアリティのある行動じゃないと思うんです。でも、雄二の反抗的で思慮深い性格はよく表してるんです。この冒頭のシーンはこういう映画的文脈の宝庫なんですけど、最初のカットから母親が家の扉を開けたのを父親が帰って来たと勘違いして、それまで遊んでた物を隠して身構えるところまでで、この家族がどういう状況にいるのかっていうのがめちゃくちゃよく分かるんです。その説明の仕方がスマートで映画的に凄く心地良いんですね。要するに、俳優の人たちの演技の上手さとか、ロケーションの絶妙さとか、そういう映画的な心地良さが内容のヘビーさを超えるというか。なんか、そういうフィクションとリアルとか、辛い話を面白く撮るとかいう両極どっちにも振れるみたいなことが、" 血の絆 ” っていう、良くも悪くも作用する家族という概念を表すのにちょうど良かったんじゃないかななんてぼんやり思ったんですよね。
全ての配役が完璧で、ほんとに実存するんじゃないかと思うんですけど、それって映画っていう虚構の中での完璧さなんですよね。でも、その虚構の中に真実を見つけるのが映画じゃないですか。この映画の中で真実があるとすればあの場所だと思うんですよ。映画観てて家族の絆って家っていう場所の記憶なんじゃないかと思ったんですよね。あのタクシー会社から母屋に繋がる中庭みたいなところ、あそこにあの家族の様々な記憶がある様に見えて、それがまたリアルでもあり観念的でもあったんですよね。
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