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好きな小説家のサイン会に行く前の回想⑤(完結編)

(承前①)
(承前②)
(承前③)
(承前④)

 奥付に刻まれた日付と小池真理子さんの生年月日から類推すると、小池真理子さんが『無伴奏』を書かれたとき、小池真理子さんの年齢は38歳くらいなので、作中人物と同じ70年代というのは当時の小池真理子さんから見て20年前である。ずいぶん遠い昔だと当時は思っていたが、いまの自分の年齢から高校時代がいつだったかと振り返ると、すでに20年以上の月日が流れている。高校時代にはずいぶん遠いと思えた20年以上の時間を、ぼくはここまで生きてきたのだ。書いていて驚愕してしまう。時の流れは早すぎる。Windows95とか、そのあたりももはや過去ではなくて、歴史なのか。
……自分は何をしていたのだろうと空虚な気持ちにならなくもない。しかしその歳月を小池真理子さんの著書と歩めたことは、やはり少しは自慢してもいいことかもしれない。
 20年以上愛読するような小説家であっても、当然、初めてその本に手をのばす瞬間というものがある。ぼくはその初めては覚えておきたい。もっとも自分の人生の半分以上の時間を共にすることになる、伴走者たる存在の方なら忘れることのほうが難しい。その出会いは、一瞬の点でしかない。その瞬間を忘れるわけにはいかないのだ。
 出会いからいまに至るまでを点と点の結びつきで表現するのであれば、その始点は、高校時代、図書室で、『無伴奏』に手を伸ばした瞬間、……ここになる。ここがサイン会に足を運んだり、小説を手あたり次第読んだりするようになるスタート地点である。
 よくもわるくも、五十音順で気になる表紙の本、あるいは冒頭数ページが読みやすく、世界に入りやすい本、それらを自分なりに手繰り寄せた結果、太田忠司、景山民夫、そして小池真理子へと続き、そこでぼくの読書のスイッチは本格的にオンになったといっても過言ではない。
 景山民夫の『さよなら、ブラックバード』のクロッキー、そこによく似たタッチで描かれていた小池真理子の『無伴奏』のクロッキー、……書けば書くほど、どんどん点が線になっていくのである。
 直木賞という作品が読みやすいのではないかと教えてくれた『遠い海から来たCoo』、その著者がふたたび少年を主人公に書いてくれた『さよならブラックバード』、こういった出会いがなければ、おそらく書架にひっそりとたたずんでいた『無伴奏』にはたどり着けていない。たどり着けていなければ、今頃どうなっていたかも、当然知る由もない。しかし、まさか二十年以上、その小説家の作品を読んでいるとは考えていなかった。
 もっとも読書とは、そういうものではないだろうか。何かにはまるきっかけというのは、はまる度合いが深いほど、案外きっかけは単純なのではないだろうか。
 そのきっかけは表紙かもしれないし、最初に開いた見開き二頁の文章かもしれないし、今回記したように表紙かもしれない。あるいは帯かもしれないし、口コミかもしれないし、作家本人かもしれないし、小説にはまるきっかけや、小説家にはまるきっかけは本当に人それぞれである。(ちなみにぼくはすべて体験している)
 本を通じて知り合った方に、ひとつ言われたことがある。
 とりあえず小池真理子のサイン会にいたるまでの長い前日段なるこの章は、ひとまずこの言葉で締めようと思う。

『どのような経験も、無駄になることはない』

 なるほど、確かに。
 話があちこち、横道にそれているが、その横道がひとつでも欠けていたら、その後の読書人生は変わっていただろうし、『無伴奏』『恋』など多くの傑作を生みだした小説家のサイン会に行くという発想にもたどり着くことはなかった。だとすれば、いまの人生はさらに味気無さを増していただろう。その味気無さを少しでも和らげてくれるための糸口はどこだっただろうと思い返すなかで、たどり着いたのが景山民夫だった。いまとなっては彼の名前を本屋で見かけることは皆無だが、それでもやはり自分にとっては大切な小説家の一人だ。彼なしに小池真理子にはたどり着けてはいない。
 ぼくの場合、小池真理子の本に手を伸ばしたのは、世間の評判、見開きの文章、帯の文句でもなく、たまたま読んでいた著者の隣に並んでいた本で、最初に読んだ本の表紙と、次に手を伸ばした表紙のクロッキーのタッチが似ていたからだった。作品本位で読み始めたわけではない一小説家が、その後の人生に彩を与えてくれるのだから人生はやはり面白い。
 本来、小池真理子のサイン会について書こうと意気こんでいたものの、初めて小池真理子を手にした瞬間を思い返し、懐かしくなりあれこれその背景を綴っていると、サイン会に行くまで、いや、その作品世界にどっぷりつかってしまうまでの前日談でそれなりの文章になってしまった。
 次こそは本編、サイン会の話に進められるようにしよう。
 サイン会のみならず、その当時の思い出も書き連ねていけたら面白いかもしれない。

                                (完)


 追記・この文を下書きしているさなか、令和の世において『遠い海から来たCoo』がテレビ放映されていた。やはり後世に残る作品、小説家に出会う確率は、少し高いのではなかろうかとうぬぼれた次第である。もし視聴された方がいれば、いまにも通じる普遍性の一端を感じとっていただけていたらうれしい。
 

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