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【コラム】自分の筋道で生きていく人が最も苦労するのは「インサイドアウト」 #023


■子供から大人になる過程は→社会訓練


少し長いが順番に説明を書いていこうと思う。
どの国でも歴史上も洋の東西も、子供は社会で「役立つ」ように訓練される。学校に通うことが当たり前でなかった時代には、労働力として役立つよう訓練された。

幼少期に「遊び」がないのはニューギニアの一部の部族だけだと言われている。しかしそれも強制的に遊びをさせていないようだ。
遊びとは社会で生き抜くための最初の手段で、どちらかというと人間的ではなく動物的だといえる。動物も、たとえば子犬も遊ぶ。

この時期は誰にとっても「インプット」のみの時期だ。訓練によって何かをできるようにする場合もインプット目的のためのアウトプットという制約条件がある。
受動というよりは自動性が強い。
大人も子供も、何も知らないことを考えたり感じたりはできない。中途半端にしか知らなければ普通に判断を間違う。そのため、経験や知識で知ることをし、実際にどうなるかを観察したり十分な情報を得ているかどうかなどが問題にされる。

ともあれ、子供時代というのは社会に出るための訓練期間で、自動型の受動が必要(強要)される。


■社会に出てからは受動が求められる


次が社会だ。訓練期間が終わり実戦に投入される。
まず仕事を覚える必要がある。仕事には手順やスキル、コミュニケーションなどが求められる。
訓練の時期に想定していたこととは違い、現実の洗礼を受ける。

数年もすると社会にも慣れ、仕事ができるようになったり、人と上手にコミュニケーションをとることができるようになったりする。
しかしいくら慣れても、社会で通用するということは必ず受動ありきで物事が進む。

仕事は取引先の要望、会社の方針、上司の指示などによって決まる。
結婚すれば役所手続きに、それぞれの国の方針に従った結婚のルールに従う必要が出る。都会には都会の、田舎には田舎の暗黙知のようなものも気にする必要がある。
子供が産まれると役所の手続きは果てしなく続き、病気になって病院に連れていくなど翻弄されることも少なくない。

休日は自由に過ごしたいものだがそうはならない。そもそも休日というものがルールで決められている。このため行楽地や買い物はどこも混雑し、その混雑に対応したプランを立てる必要に迫られる。
なら日本人のあまりいない海外に行くのはどうか。貯金額の上下によってどこに行くか、何泊するかが決まり、現地のルールに従って行動しなければならなくなる。たとえばドイツなら日曜日に開いている店はない。

子供時代、われわれはこの社会に適応するための基礎知識を身につけ訓練をした。
大人になると戦場に投入され、生き残るために必要なありとあらゆることをやらざるを得なくなる。
つまりこの2つの時代はどちらもアウトサイドインのルールに従って自分を振る舞わせている。

アウトサイドにある物事を中心に→インサイド側の自分を動かす。
これがアウトサイドインのルールだ。
自分で好きなようにビジネスをする場合ですら、売れないものを扱うことはできないし、お客の意向を気にしない経営者はいない。

生物は環境に、状況に適応するようにデザインされている。
そちらの方が得意だとも、当然だとも言えなくはない。
ほとんどの人は社会の常識に従いアウトサイドインに熟練することで「これが正しい道だ」と信じる。このため自分を生かすというのは「仕事で上手に自分を使う」ことだとか「良い家庭を維持する自分」という極めて限定的な自分にフォーカスされる。

そして40や50になり、これこそが正しいと信じ、自分の心に子供の頃から内在している本質は「そんなものは生まれた時からない、仮にあったとしてももはや重要ではない」という位置に置き去られる。


■手札にはまだ「インサイドアウト」がある


このため多くの人・・・ほとんど全ての人の人生は社会に適応しただけのつまらないものとして終わる。この現実は中世や近世よりもはるかに自由度の増した現代でも変わらない。

アウトサイドインに従うとメリットがいくつもある。
まず安定的で安心できる。よほどの独裁国家でなければ、今後何の心配もなくみんなと同じように死ぬことができる。妙なプライドも保てるし、お金もそこそこある。人間関係もベストではないが悪くもない。維持継続できている。たまに旅行に行ったり、誕生日を祝ったり、1年の中に何度かいいことがある。

つまりみんなと同じ量産型の人生を確保したのだ。
この世界線で個性は一切必要とされない。
みんなこのことに気が付かず、笑顔で死んでいく。他の誰かと同じような人生を歩み、他の誰かと同じような死に目になり、いなくなれば早々に「誰も思い出さない」。


少し角度を変えて考えてみよう。
子供時代は大人になることに向けて訓練をする。逆に言えば、大人になってもしっかり歩めるように準備をすることになる。筋は通っている。

大人は何のために働き結婚するか。
働くのは食べるためだ。贅沢のためではない。ほぼ全ての人が食べるために働く。結婚するのはそう決まっているからだ。人間社会のルールでのみ結婚がある。制度を作って結婚させる目的は、歴史上人口を増やすためで、人口を増やすことが種の保存に有利だ、などと言われている。
結婚すると社会が安定し、結婚制度をなくすと個人が安定するという反比例の関係にあるという調査もある。

さて十分な適応・・・・仕事や結婚などを手にするのはいつだろう。晩婚化が進んでいるとしてもせいぜい30代半ばまでだろう。これは生物学的な女性の出産とも関係する。
そのような色々を経て40になったとしよう。
つまり子供時代の訓練、大人になってからの実践投入はある一定の形で完結した。しかし厄介なことに寿命が伸びた現代ではまだ人生の時間の半分しか過ぎていない。

一体私たちはなぜ社会に適応して安定までしたのだろうか?
子供時代の訓練が大人になってからの準備だとするなら、大人時代の適応とは社会を泳ぐ技術と知恵を身につけることだ。何のためにそんなに熟練するのだろう?

インサイドアウトをするためだ。それ以外の理由はない。


■自分の思い通りにし始める→個性の現実化


インサイドアウトとは、自分の内側であるインサイドを、外の世界のアウトサイドで形にするということに他ならない。
インサイドを、アウトして思い通りにするのがインサイドアウトだ。

社会適応はどうやっても生産性と密接な繋がりがある。食事も家も満足に得られない活動に没頭することはほぼできない。
しかしこの世の中で意味のある行為行動は必ずしも生産性とは関係しないことがあるし、何より個々人の強い願いや子供の頃からの夢、今後どのように生きていきたいか?などは1ミリも関係しない

私たちは子供の頃から個性がある。幼稚園に入る前の子ですら一様ではない。ちゃんと人格がある。そしてその人格に基づいた(社会性に基づかない)純粋な求めを持っている。
社会性が関係しないので一見悪いことに思えることもある。たとえば「人を傷つけたい」という個性がある人もいる。そういったものは教育や社会生活で制限されたり訓練によって自分を不利にしないように知恵を身につける。

悪いものでなくていい。たとえば世界を旅したいと年齢が低い頃から思っていたとしよう。あるいは早熟で幼稚園の頃から性への興味があったとしよう。興味の矛先は鉄オタでもいいし、ただただ幸せを願っているという形でもいい。
ともあれ個性の求めが必ずある。

そして先ほどの例なら40になるまでこの求めは封殺されてきた。
なぜなら、まず子供はそのような願いを自分で形にすることができない。能力的に条件的に無理がある。
では大人になればみんな願いを叶えようとするのか?もちろんしない。彼らは40になるまでに必要な「全然別のこと」をすることに忙しい。なぜそんなことをするのかというと、生きていくためという理由もあるが、前向きに考えればこの社会で物事を形にするというのはどういうことか?を習得し、再現できる実力をつけるためだ。

つまり、ここに至ってやっと「元々の望みをこの世界で思い通りにしたり、形にすることができる自分」が作られたのだ。
つまりインサイドアウトに踏み切る時が来たということだ。
(ただしサボってきた人にはその力はない→アウトサイドインをよしとすることで精神を保つしかない)


■アウトサイドイン→インサイドアウト


ところが私たちはアウトサイドインの呪縛に封印されている。二重三重どころではない。仕事、家族、お金、これまでの経験、培ってきた常識や技術。そういったもののほとんどが「そもそものインサイドアウト」に役立たないラインナップになっていることも少なくない。

このことに気がついて移行しようと試みる人は、これまでに感じたことのない苦労を感じるハメになる。
アウトサイドからの条件に従って、部分的に自分を扱う前提があるために、まずインサイドが何を求めているのかわからなくなっている。「このまま(アウトサイドイン)ではいけない」と気がついたほとんどの人が、まずこの不安定で先が見えない洞窟の闇に直面する。

これは地道ながら、強みや資質、個性と理論を知ってひとつひとつ実践とフィードバックを繰り返せば解決できる。
だがこの時点で「そんなに面倒なことをするなら、成果を上げられ、自尊心を守れることをした方がいい」と考える人は多い。

このハードルを乗り越えると、次はゆらぎの状態に立たされる。
特に感情面で継続的な不愉快の状況に立たされる。頭を使うことが上手い人は暗闇の洞窟でどうすればいいかを考えるが、そもそもそこに答えはない。洞窟を進むしかない。しかし暗闇を進むのは誰にとっても不安でいっぱいだ。
このため「こんなに不安になりまくることを求めているはずがない」と、アウトサイドインの世界に戻ってしまう。インサイドアウトは台無しになる。

しかし根気強く進む人も次の難関が待ち受ける。
上手くできないのだ。
アウトサイドインで培った技術は、たとえば仕事などで成果として発揮できる。やり方も知っているし、それを認めてくれる人もいる。
しかしインサイドアウトは、みんなの共通認識ではなく、自分個人の本質的な求めなので、それをどう形にするか試行錯誤して自分で方法を編み出す必要があり、かつほぼ誰もわかってくれない孤独な戦いを強いられる。
やはりこのことに挫けて元に戻ってしまう人は少なくない。

アウトサイドインの習慣を、インサイドアウトに変更する時が人生で最も困難を伴う。
自分の心の内にあるものを、現実で形にした人が口を揃えて「必要な努力や苦労の重要性」を説くのは、つまり【アウトサイドイン→インサイドアウト】への移行のことを言っているのだ。


■インサイドアウトの世界


言い方は誤解を招くかもしれないが、実際に「自分の思い通りの人生」だと言える。人生は現実の連続、の集大成なので単発で何かが上手くできたかどうかは関係しない。
生きていれば上手いことも下手なこともある。成功も失敗もする。
重要なことは人生のほとんどが「アウトサイドインに占められているのか」それとも「インサイドアウト」に占められているのか、だ。

翻って極論すると、思い通りの人生とはインサイドアウトの分量が多い人生だともいえる。

社会で物事を動かす力を身につけたなら、それを自分のために使う。
子供の頃から執念深く願っているものはまだ出番ではない。プロ野球の打席に立っていきなりホームランを打ちたい・・・というのは現実的でない。
まずは欲求を満たす。やりたいことを子供のように全部やる。

長くなるので書かないがこれには複合的な意味がある。このプロセスなしに次に進むことはできない。
やりたいことをやりたいだけやると、人は必ず飽きる。欲求とはその程度のことだ。次は自然と「もう少し困難だとしてもやっていきたい」ということが出てくる。

そしてここが大事なところなんだが、「もう少し困難だとしてもやっていきたい」は複数個全部やる必要がある。個人の性質によってマルチタスクが苦手であるとしても、極力欲張りに全部やろうとする。
小さなことでもいい。YouTubeで動画をアップしたい。どうせやるならカッコよく編集したい。せめて1万人は登録者が欲しいから頑張りたい→いちから技術習得や努力を含めてやり切る。
それを複数行う。やりたい程度は高くても低くてもいい。

このときに気をつけたいのは、仕事のように成果を設定してやらないことだ。成果を想定すると反応が取れるもの「だけ」をやろうとしてしまい、インサイドは不純な形で曲がる。
誰も支持しなかろうが、ヘタクソだろうが、外の世界(アウトサイド)で形にすることをそのものを目的にやる。

子供時代が大人のレッスンで、アウトサイドインがインサイドアウトのレッスンだとすると、「もう少し困難だとしてもやっていきたい」はインサイドアウトの感触をつかみ、思い通りにするということはこういうことか!という感触をつかむためのレッスンだ。
インサイドアウトでやることは、アウトサイドインでやることとかなり違う。インサイドアウトにはインサイドアウトのルールがあり、上手にできるための方法がある。その方法はほぼどのような場合もオリジナルであり、世の中に雛形はない。試行錯誤して見つけるしかない。
そのレッスンを「もう少し困難だとしてもやっていきたい」が可能にする。

コツコツとヒットを打てるようになったら、たまにホームランを狙う。プロ野球選手が1回しかホームランを打たないわけではないから、機会があるごとに大きなホームランを何回も打つ心持ちにする。
もちろん打てなくても構わない
インサイドアウトで成果はさほど問題にならない。人生ベースならどれだけ準備し慎重に構えても、必ず成功と失敗がある。
こうして打者として熟練すると→自分の扱いに熟練し→インサイドアウトで作り出す現実の数や時間が人生のほとんどを占めるようになる。そしてゆうに(後半)40年ぐらいの時間がかかるだろう。

勘違いしてほしくないのは、欲求に任せてやりたいことをやると幸せだとか、「もう少し困難だとしてもやっていきたい」ができている自分だとかは、プロセスでしかないということだ。
ここで止まると欲求だけ満たす知能の低い人生になるか、苦行と訓練に捧げる人生になる。前者は苦しいことはしたくないと言い、後者は努力の良さを知らない哀れな人だと言う。どちらも半端者であることに変わりはない。


あとがき

普段書かないけどあとがき。
本当は理論の裏打ちや統計的に言えることがたくさんあるけど書ききれなかった。99%の人がアウトサイドインのまま人生終えるので、それでいい人はそれでどうぞ。それではいけないと感じている人はアウトサイドインとインサイドアウトの狭間にいる。で、インサイドアウトに移ろう!とする人の9割はなんだかんだ言って移らない。ひどくすると自分はやり切った、これまでとは違うと錯覚人生送る人もいる。
失望感はあるがそれがスタンダードなのと俺の見るべき人ではないので特に気にならない。本当に写りたい人はまずここまでに書いた順番を知っておくといいと思う。暗闇の洞窟でも順路がわかっていれば気は楽かもしれない。



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