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【コラム】人はいつ子供の頃の純粋な夢をなくすのか? #025

※ガチの理論コラムです


■子供の頃の夢は無邪気か?


結論から書こう。無邪気ではない。ちゃんとした軸がある。
人の親ならいろいろと気がついていることがあると思う。特に兄弟がいるなら「何をしたいか」「何が好きか」「将来何になりたいか」に個性があり、差があり、同じにならないことを見たことがあるだろう。
コロコロとなりたいものが変わる子もいれば、別にないと言い掘り下げても出てこない子もいる。男の子なら戦隊モノに興味を示し、その延長線上にあるヒーロー、スポーツ選手になりたい子がいれば、乗り物に興味を示しバスの運転手や飛行機のパイロットになりたい子がいる。

つまり人は幼い頃から知覚の指向性が備わっている。

知覚の指向性を簡単に説明すると、好き嫌い、向き不向き、興味を示す示さない、伸びる伸びないなどの傾向と系統のことだ。
ある誰かはケーキが異常に好きだが、別の誰かはケーキなんていう甘いものは大嫌いで塩系のお菓子を好むかもしれない。ただの好みや良い悪いの話ではなく、ネガティブ方向のものも、ニュートラルなものも知覚の指向性によって決まる。
つまり人の個性には傾向と系統があり、ある物事との関わり度合いが深いものと浅いものがある。

これが「子供の将来の夢」にも表れる。
しかも10歳前後の「将来なりたいもの」には知覚の指向性が割と純粋な形で反映される。なりたいものが「わからない」「ない」という子も、普段の生活でどのような特徴があるかをよく観察すると、何になるかまではわからないものの、何には向いていないのか、そのルートは歩まないのかは意外と簡単にわかる。
つまり子供は、我々が思っている以上に『自分の性質に合った将来の物事(職業)』を的確に見極めている。
スーパーヒーローになりたいのなら、それは人を助け活躍するような属性のことを言っているのかもしれないし、主人公として活躍する性質の表れかもしれない。あるいは空を飛ぶということに知覚の指向性が反応しているかもしれない。だとすれば空を飛ぶことに関係する仕事、パワードスーツの開発に関係する仕事に就くというのは夢想ではない。
社会の職業や可能性のことを知らないから、知っているもので伝えると「スーパーヒーロー」ということになる。


■大人は子供の頃の夢をどこに捨てた?


子供は純粋に自分の性質に合った夢を持つが、しかしそれは夢なので、年を重ねるとともに現実と夢のギャップを知るようになる。それが大人になるということだ。
スーパーヒーローになりたいと思っていたなら「どうやらこの世の中にそういう人はいないらしい」と気がつく。今までの自分はなんだったんだ?幻想になろうと勇み足をしていたなんて恥ずかしい・・・・。
消防士になろうと考えている人の現実も同じだ。消防士以前に全く関係ないと思われる数学や英語を学び、そして良い点を取らなければならない。消防士とはなんの関係もない。しかしもし「できない」なんてことになると「自分はなんて頭の悪いダメな人間だ」消防士なんてなれない、と簡単に理解する。

もう少し歳を重ねよう。
消防士になるためには公務員というポジションを取らなければならない。そのために試験がある。その試験に受かることはできるのだろうか?
また生まれて20年もすると、世の中にはどうやら消防士以外の仕事があり、職業の選択という範囲の中で「自分は何者にでもなれる」という錯覚が起こる。
この錯覚は、消防士よりこっちの方がいいかも?と思わせる。なぜなら今まで消防士のことは知っていたけど、他の何かは知らなかったのだ。そっちの方が自分に合っているだとか向いているとしてもおかしくはない。

様々な知見や挫折、誘惑や怠惰などを経て「ひとまず何者かになる」年齢になると、我々は夢の実現からではなく「ひとまず」何者かになる。
そしてこの「ひとまず基準」はその後も死ぬまで続く。


■すでに夢は失われた


仕事をし始めたら覚え、行動し、成果を出す必要がある。仕事にトラブルはつきものだから、精神的にキツくなることも少なくない。
大抵の場合忙しくなる。その上人間関係も新しく作る必要がある。金曜の晩は学生時代の友人と飲みに行って近況を報告し合う。

そういう日々を過ごし、あるとき結婚を考えるようになる。結婚資金を考え、新しい生活を考えるようになる。
そして時間が経つと次は子供のことを考えるようになり、家を建てることや生活資金のことに取り組む必要が出る。

ひとまず仕事をし
ひとまず仕事を熟練させ
ひとまず結婚し
ひとまず子供を養い
ひとまず一度落ち着いて休憩し
ひとまず家を建て
ひとまず金銭のマネジメントをする
その合間にひとまず家族旅行に出かける

この段階で夢はとうの昔に失われた。そして「夢を語るのは若者の特権だ」などという位置付けになっている。自分の子供が将来の夢の話をすると、表面上は「いいねー」と言いながら「そんなわけあるか」と全否定している。
積極的に否定しているのではない。自動的に無意識的に、当然のように否定している。気がついたら否定している。

だが実のところ、彼らが失ったものと否定しているものは夢ではない。もっと根本的に大切なものだ。


■夢を望むメカニズム


夢は「未来の自分の姿として希望する形」のことだ。職業のことではない。
子供の頃既に知覚の指向性が発揮されていると書いた。この言葉は難しいのでここでは個性と呼ぶことにしよう。
個性というのは他の人とは違う、自分特有の性質のことだ。その性質がたとえば「自分はどうやら消防士に向いているらしいぞ」「その根拠は15個ぐらいあるな」という判断を下している

つまり夢を望むということは「自分の理想的な将来を望む」ということで、理想的であるためにはなるべく個性に一致した物事を選別し、判断し、決定する必要がある。
子供は社会のことは知らないが、むしろ知らないからこそ、その情報の影響を受けずただ単純に自分に向いていることに判断を下す。もちろんスーパーヒーローのように現実とはかけ離れたことを言い出すかもしれない。だが重要なのはそこじゃない。自分自身の個性をわかった発言をしていることが最重要なのだ。

一方我々が「ひとまず」をするのはなぜか?
「ひとまず個性を生かす」なんていうのは聞いたことがない。「ひとまず」は常に、社会適応するときに使われる。それも上手く行きそうにないときや、忙しいとき、複数のことを「やらなければならないとき」に活躍する。
ひとまずというのは社会環境と自分の調整を上手にさせる仲介役だ。ただ茫然としていると状況がどんどん悪くなることに対して手を打たせる武器だ。
この時点で個性は社会性に取って代わられ、夢の芽は摘み取られる。最初は優しく摘み取る。「そんなことを言っていないでまずやるべきことをやろう」「その次に夢のことを考えよう」。そうして一生やるべきことが連綿と続く波のように打ち寄せる人生を歩き出す。

このシステムに乗った人は夢など幻想であり、若者が持っているイメージでしかないと自分を諦める。諦めたのは夢ではなく個性で、個性を生かす将来の自分の状態を諦めたのだ。
システムに乗りながら「若者の戯言」などと嗤わない人もいる。そういう人のほとんどは子供に夢を託す。お前には自分らしく生きてほしいと言う。だがそれを言っている当人は自分らしく生きるわけではない将来を手にしているのだからその背中を子供に見せることになる。
子供は「そういうものか」と思う。それ以外に思いようがないからだ。

【子供の頃の純粋な夢】とは【自分自身の個性に基づいた理想的な将来】だ。純粋というのは社会性ではなく個性から自分を定義することで、理想とはそれを形にすることだ。
形にする力は大人にしか備わっていない。一方個性ありきの純粋さはどの子供にも備わっているが、大人になるに従って維持できなくなる。

夢を叶えるというのはつまり、個性ありきの自分自身を上手に運ぶ現実を作るということに他ならない。
そしてそれは若者の戯言ではない。老人の敗北宣言だ。
問題は老人の定義だが、白髪の人たちのことを言っていない。老人とは純粋さと理想の両方を打ち捨てた状態のことだ。これはつまり「自分で自分の現実を構築することができない」ということを意味する。

敗北以外の何者でもないし、自分という個性を持って生まれてきた意味もそこにはない。


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