見出し画像

【5章】個性を明らかにするには、「個性を探る」しかない(スーパー当たり前なこと) #014

個性を探ることに特化した専門分野はない。またはほぼない。
誰かがどのような人間であるか?を明らかにするためには、個性(誰か)とは何で、人間とは何かを考える必要がある。それは心理学や生理学や社会学という学問「分野」では分かり得ない。切り口としてジャンルを作ることで分かりやすくしただけだ。

学問分野ではなく、活動分野も同じだ。活動分野は何かの目的によって作られる。
自己啓発は商売として成り立つ商品づくりから始まった。ナポレオン・ヒルは素晴らしい理論を構築していない。彼がやったことは金持ちの言っている共通項を並べたことだ。そもそもそうアドバイスを受けて、そうした。現代の自己啓発も本質的に同じことをしている。彼らは稼ぐために受けのいい言葉を並べる。
スピリチュアルは目に見えない精神性や人間とは別の理、主に科学分野では解明していない物事を、感覚重視で扱おうとする。占いも同じだがそもそもはより大きな物事をスムーズに運ぶために作られた。宗教は科学や医療、生産性や経済が発展しない絶望的な社会で、それでも希望を持って生きることができるように道を示した。
宗教は現代の自己啓発とスピリチュアルの両方の条件を満たしている。

学問分野も活動分野も、誰か個人が特殊な力を持っていることや、それをどのように扱うか、そういう人の人生はどうであると良いのかを目的にしない。



■なら、個性のことを考えるにはどうすればいいのか?


ここに至るまでにいくつか、個性の扱いについて触れた。
その人そのものに触れなければ分かりようがないことや、自分と人生の別系統の個性があることを説明した。

ここではもっと基本的なことを書こう。

「結局、個性の扱い方はどうするのか?」という質問に、シンプルで力強い答えを出すことはできない。それは「スピリチュアルは結局どう扱うのか?」とか「心理学はどう扱うのか?」という問いと同じだからだ。

この質問の答えを探るには、先に3つの必須条件を知っておく必要がある。

①自分(相手)の個性が何かわかっている必要がある
個性が何かを知らず「生かす」ことはできない
生かすことを考える前に、知ることを終わらせないといけない
まして「知らないながらに行動していれば見えてくる」ことは絶対にない

②個性が生かされているか、生かされていないかを問題にするのではなく
『個性と個性がバッティングする』とき
どの場面でどの個性をチョイスするのか。
正しい判断基準を知っておく必要がある。
でなければ常に「適切でない個性」が使われる。
(その場合でも個性の発揮はできている)

③チョイスされた個性が本当に生かされているかどうかは
「自分の個性」であれ「人生の個性」であれ
『ずっと見ていなければ分かりようがない』。

3つの条件を詳しく見ていこう。


■①自分(相手)の個性が何かわかっている必要がある


個性はオリジナルだから、タイプAやタイプBのカテゴライズを作ることができない。限りなく他人にはない特徴に注目する必要がある
そのためには相対的に大勢と個人を比較する必要がある。個性は常に相対的にオリジナルとなる。

個性には基軸を表すもの、状態を表すもの、動きを表すものがある。この3つは基礎になる。
『基軸』とは価値や真意、心の求めや、外部条件に関わらず常にある基準を曲げない物事などのことだ。
『状態』とは英語の"be"に当てはまる。人格、性格、人間性、人柄、など内面に関係することで、感覚や感性が関わることが多い。どのような場面でどのように心が動くのか、その特殊性に個性が表れる。
『動き』とは英語の"do"に関係することで、強みや能力、才能、センスなどがある。一般的にこの「動き」に関係することが個性だと思われている。

それぞれのオリジナルの傾向は分けることができるが、カテゴリではないのである「状態の個性」が働いているとき、同時に、別の「基軸」別の「動き」の個性も連動する。組み合わせによって個性は発揮される

この3つのどの個性も、強度の強い弱い、オリジナリティの高い低い、汎用性のあるない、がある。ここを見極める必要がある。
日常生活の「基準」になるものがあれば、特別な場面の「基準」がある。良い「状態」で使われる「動き」があり、ヘンな「状態」でわけがわからない時に使われる「動き」「基準」がある。
しかも個性の基準、状態、動きがある一方で、シチュエーションによってはただ適応したり、個性度合いがほとんどない基準や動きをすることがある。このあたりも区別が必要だ。

一方、マイナスにも個性がある
たとえば恋愛に臆病だとしよう。ある人は破壊破滅的な行為をするだろうし、別のある人は塞ぎ込んで引きこもる。そこには何かの個性が働いている。
ということは、個性に影響するマイナスの働き(基準、状態、動き)にはどのようなものがあるかも知る必要が出る。似たような個性でもある人にとってはマイナスの個性として働き、別のある人にとってはただの個性になる場合がある。この見分けも必要だ。
たとえば、人の目を見て話さないし、極力会話をしない。コミュ障と言えばそうかもしれない。だが特に人と話す必要を感じない・・・・という2人の人がいるとしよう。
片方は過去のトラウマなどで人が怖い。つまりマイナスに働いている。トラウマで人が怖くても人を避けない人もいるから(先に攻撃をするなど)この人は「マイナスの個性」を発揮している。
一方、ただ別に人と話さなくてOKだし、興味がないばかりかわざわざ会話をするのが億劫なら、それは「ただの個性」だ。自分のあり方における「状態」の個性になる。避けているのではなくそれが自然体なのだ。

そして最後に、個性が組み合わせである以上、ただの個性とマイナスの個性も複数同士が掛け算で扱われている。その結果良い物事に結びつくこともあれば、悪い物事に結びつくこともある。何の意味も生み出されず、やらなくても同じだったという結果になることもある。
ということは、自分(人)の個性を知るには、組み合わせのパターンをいくつも見極められる必要がある。麻雀やポーカーで役を知っておくことと同じだ。ただしルールの決まっているゲームよりも遥かに複雑で難しい。

ここまでですでにわかると思うが、こういうことを明らかにする「分野」は世の中にない。脳科学を切り口にしたり、統計結果やエネルギーを切り口にする分野ではここまでのこともはっきりと示すことができない。


■②個性と個性がバッティングするときの判断


個性を把握できれば、もはや個性でないものに紛らわされることはなくなる。だが次の課題が待っている。
今自分を生かしたり、人生に関わるのは「個性A」なのか「個性B」の方か。それとも今こそ「個性C」で行くべきではないのか?

「どれでもいい、変わらない」・・・・などということは決してない。
扱う個性を間違えると、その結果得られる人生の期間、人間関係、物事の進みなどが『本来求めていないもの』で占められるようになる。10年経って気がついた時には手遅れになっている。
どうして10年単位で気がつかないのかというと(一生気が付かない人もいる)個性が使われ、上手く行き、良い理由がたくさんあるからだ。

つまり前提を間違えている

私たちは「個性が有効に発揮されている」場合、外の世界で上手く行くということさえ満たされていれば『これが自分を生かす道だ』と安易に錯覚する。だがそんなバカな話は絶対にない。
理由はいくつかあって、
まず、個性のバリエーションはあるひとつの道だけで使われるほど少なくない。様々な場面、状況、シチュエーションで活躍できる分量ある。
次に、たとえばあなたが3番目に好きな人と結婚したとする。そして10年が経った。素晴らしい結婚生活だ、やはりこれで良かったし、間違っていなかった・・・などと思う。しかし同じことは1番目に好きな人、2番目に好きな人と結婚したときにもそう思う。場合によってはあまり好きではない人と結婚してもそう思う可能性が高い。なぜなら他でもないあなたの個性がそうできるように、思うように、上手く行くように振る舞わせるからだ。なら、今の結婚の素晴らしい理由をいくら並べても理由にならない。
なら1番好きな人と結婚することが「この人生」を俯瞰した時、選ぶべきものを選べたと考えられる。あり得ない話だが、同じ人生を100回することになったとするなら、100回分の人生で必ず上位(1位)と下位(100位)が分かれる。個性を基準に考えるなら100回の中の1位を、今、もう、この人生で行うことだ。それが個性を上手に扱ったことになる。

現状でどの個性を選ぶか。1位になれるように振る舞うかを考えるとき、論理思考や超感性は役に立たない。もちろん過去の経験則や勝ちパターンも役立たない。ただただシビアに目の前の現実が今後数年〜数十年、自分をどのような人間に仕立てるか?ということと、それに対してどの個性をマッチングさせるかだけが問われる。
論理思考は情報が揃っている物事に対して効果を発揮する。情報が欠落しても推測法や演繹などの技術を駆使できるが回答の精度は下がる一方になる。直感や感受性を含む超感性は、感性という物事の性質上目の前の時系列が短いものに力を発揮する。しかもそれは事象への働きであって、個性と物事のマッチングには働かない。なぜなら感性を重視するほとんどの人が、理論で個性を学ばないからだ。
だから個性を有効に振る舞わす選択をする場面で論理思考と超感性は役立たない。役立つのはどこまでも個性と状況の一致率の検討、そしてその結果自分がどうなってしまうのか?という予測と対策だ。この方法の確度は「知覚量の多さ」によってしかカバーできない。
頭のいい人の発言より、直感が優れている人の指摘より、能力ではそのどちらもに劣る「おばあちゃんの知恵」の方が説得力があるのは、知覚量の豊富さによる。


■③個性が上手く発揮されているかは「ずっと見ていなければ分かりようがない」


自己啓発で有名な人やスピリチュアル能力が高い人、占いが当たると評判の占い師、心理術に精通したメンタリストなど技術力が高い専門分野の第一人者よりも、自分のことをよく見ていた親の方があなたの個性を知っている。
(よく見ていないとか、見る力が全然ない、そして自分勝手に子育てした人はそうではない)

親は赤ちゃんの頃から大人になった今も自分のことを見ている(見ている親は)。意外と気がついていないけどこの子はこんなところがあるだとか、あの時あんな振る舞いをしたのは他の子にはないことだ、と事実を覚えている。
10年以上前コンサルをした女性が、周囲の女性社長を例に挙げて「あんなふうに社長はできない」と話した。それに対して俺は「その人とは話していないからわからないけど、話から察するに社長としての器とか能力、視点はあなたこそ社長に向いています」と言った。
その後その人は社長になり、メディアで有名になり、ライフスタイルが変わった。一言でいうなら成功もしたし幸せにもなった。多くの人と関わるようになったし、もっと少数の自分のことを愛してくれる人も身近にいる。
遠くからになるが俺はその状況を今もナナメに見守っている。つまりこういうことだ。良い状況や状態、成功も幸せも人間関係も全てが良いのだとして、その道を進めたことが本当にその人の人間力を扱う道だったのか?と確認している。上手くいけばいいなどということは、個性に関しては、特に「人生の個性」に関しては決してない。むしろ上に書いた「100回中13番目を喚起したかもしれない」という疑問を持つし、そうであるとしたらやはりそれは良いことではないのだ。

本当は身近な愛の関係にある人がこれをする。し合う。
しかし現実を見渡してみると、そういう夫婦なり男女、あるいは仲間や友誼の関係はあまり見当たらない。逆説的に個性の選択を誤ったから、そういう人と関わったり自分も諦めからそういう人間に成り下がっていたりする。
こういう人は「自分の個性」は限定的に使われ、「人生の個性」はないことになっていることが多い。
誰もがこの状態に陥ってしまう危険性を持っている。なぜなら個性とは突出したオリジナルだからだ。世間や社会は突出など求めない。サラリーマンやOLはもちろん、自分でビジネスをやってすらお客のニーズに応えなければ事業が破綻する。逆に上司やお客のニーズに応えて上手に振る舞うことは、そもそも個性に合っていないことを無理にしているケースがある。逆に、その振る舞いが上手にできるために個性が限定され、強度が強くオリジナリティの高い別の個性が使われる機会、芽を潰しているということもよくある。

これは「②の選択と判断」を誤っている。だが自分では気が付きにくい。
だから周囲に自分の個性を尊重してくれ、よく知ってくれていて、選択と判断の様子を何年も追ってきているので「その判断って前と同じ失敗の選択じゃない?」とか「前もそれで上手く行った・・・行ってしまったことで自分を限定したんだから、やり方変えたら?」と言ってくれることが必要だ。
そして、これを正確にできるのが長く見ている人だ(それも個性を理解して)。カウンセラーやコンサルタント、医者や占い師などの専門職ではない。
もうひとり良い人がいる。自分自身だ。自分自身のことを最も長い時間見てきたのは自分だ。よく「自分のことほどわからない」と耳にするが、これは前提が違う。自分のことをわかろうとする技術や方法をそもそも知らない。方法も知らずにわかるわけがない。他人のこともその人が気がついていない何かを、客観的に見て気がついただけで、別に相手をよく知っているということにはならない。自分で自分を知る技能を高めることで、自分で自分のことを長く、正確に「ずっと見てわかってあげる」ことができるようになる。


■正義を行使する


穏やかではない話が出てきた。
ここでは個性の話をしている。だから正義とは個性の発揮だ。
今もう使っている個性だけではなく、在庫も活躍できるようにする。
「基軸」「状態」「動き」を全て陳列棚に並べ、しかも組み合わせを無数に発揮する。個性とはどれも自分の内側に備わっているものだから、組み合わせることで『外の世界で現実に転化していく』。簡単にいえば思い通りにする。
世の中や社会は汎用性を求める。よくわからない尖ったものは通用しにくい。それを通用させる。それが個性を扱うということだ。

私たちは世の中や社会という「外」ありきで自分の適切な振る舞いを決める。これは人に限らず生物がやっていることだ。人間にもそういうメカニズムが組み込まれている。これを「アウトサイドイン」という。
一方、心の内側、頭で構築したもの、そもそも備わっている資質や人間性などをスタト地点として、自分でゴールを創造することができる。あまりできないし、あまりできているひとはいない。だが、できる。
「自分の個性を生かす」というのは創造を可能にすることで、「人生の個性を生かす」というのはそのトライと結果(良いも悪いも)の集大成により自分で自分の人生を作るということだ。

個性だけが自分が何者であるか、他者との違いを証明する。
それが上手に使われない、悪くすれば殺されるというなら、個性つまり何者かである自分は別に自分として生まれてこなくてよかった。別の誰かでも替えが効く。ルールを守るだとか、人と合わせるとか、その時代の常識でしかものを考えられないとか、社会性に合わせてしか自分を使わないことが「別にあなたでなくて良い」「生まれてこなくてもよかった」ということだ。
ぼーっとしていても生きること自体はできる。が、すでに書いたように個性を生かした1位の人生と、別に嫌なことがあったわけではないという100位の人生は全く違う。人生とは良いも悪いも、意味も価値もないものかもしれないが、個性が反映された人生のほうがそうでない人生よりも『誰にとっても正義である』という真実は変えようがない。

正義は掲げて戦うためのものではない。正しいと思い込むものでもないし、唯一無二のものでもない。しかし自分が生きていることそのものの正義は、自分が自分を十分に発揮して歩んでいること以外にない。それが正しいということであり、極論それ以外に正しいことは存在しない。少なくとも個性ある自分にとっては。


→ 次回エピローグと総合まとめ書きます

【コラムシリーズの目次】

自己啓発、占い、心理学、スピリチュアルで【個性や人生がわかることは絶対にない】コラムシリーズ

■プロローグ
1章「外側と内側では法則がまるで違う。結論も根拠も全て異なる」 
2章「マクロとミクロは法則がまるで違う」
3章「「マイナスの向上」と「プラスの向上」はルールがまるで違う」
4章「どの専門職も「自分」と「人生」を混同している。多くの場合、その違いすら分かっていない」
5章「個性を明らかにするには、「個性を探る」しかない(スーパー当たり前なこと)」 ※この投稿
【エピローグ】個性を明らかにするvs専門家の本質


Facebookのフォローウエルカム。
ほぼ日で更新しています。


フォローやシェアをしていただけると嬉しいです。 よかったら下記ボタンからサポートもお願いします。 いただいたサポートは大切に松原靖樹の《心の栄養》に使わせていただきます!