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■6月27日 推しと憧れの間

今日は朝からnote記事を書き、原稿仕事をし、本を読んで過ごしました。きっちり引き籠もりで過ごしましたので、寝られないなうです(現在、午前1時過ぎ)。

じゃあ、エッセイを書こうとPCを立ち上げたものの、何も思いつかず。ぼんやりと推しさまのポストカードを見つめたまま数分経ってしまいました。どうしましょ。

・ ・ ・

そういえば。「推し」という言葉。

時々思うのですが、「推し」という言葉で表せるカテゴリーと、そうではないカテゴリーがあるんです。もちろん、私の感覚的なものでしかありませんが。

いつも枕詞のように書く、「我が最愛の推しさま」…は、正確には「序詞」ですが、それはともかく。名古屋おもてなし武将隊の織田信長さまについては、「推しさま」という呼称でもまったく違和感を持たないんです。

うん。どれほど時が経とうとも、誰よりなにより大切で大好きな最愛の推しさま。その説明が自分のなかではしっくり来ます。

ですが、たとえば「チェッカーズ」や「チェッカーズのリーダー武内享さん」。同じく、大好きな彼らについて形容するとき、「推し」という言葉を用いようとすると、逆に違和感しかないんですよね。

でね。これって、どういう違いなんだろう? って、時々考えてしまうんです。「大好き」な気持ちは同じなのに、一方は「推し」と形容できて、他方は「推し」では表せない。このことがすごく不思議なんです。

とりあえず、「推し」という語の意味を調べてみました。すると、

推し(おし)とは、主にアイドルや俳優について用いられる日本語の俗語であり、人に薦めたいと思うほどに好感を持っている人物のことをいう。

Wikipediaより引用

とあります。確かに「推し」という語は、「すっごく好き!」なんだけど、それとは異なる感情も乗せて発している気がします。

また、「推し活」「推し事」などの言葉もあるように、自分の消費行動がその人への貢献になる、そのことに喜びを覚えるというニュアンスも含まれることを考えれば、「大好き」や「ファン」で表す感情よりも具体的で、リアルで、だからこそ、自分で対象との距離を決められる自由度があるのかも知れません。

って、あ。「自分で対象との距離を決められる自由度」

今、書きながら思いついた言葉ですが、思いの外これがハマる気がしてきました。

だって。

たとえば、私にとっての「チェッカーズ」「チェッカーズのリーダー武内享さん」はどうあろうとも「雲の上の人」なんです。あの当時の空気を肌感覚で知っているから、というのはありますが。兎にも角にも、自分で距離を決められるなんてとんでもない。いつまでも「憧れの芸能人さん」なんです。

もちろん、その時々で「好き」や「憧れ」の濃淡はあります。でも、それは自分で決めるというよりは、自然とそうなってしまうものではありますし、「自分で決める対象との距離」とはまったくかかわりのない感情です。

そう考えれば。

「推し」に対して、時折気持ちがこじれてしまうことにも理由が付きます。距離感に自由度があるから、かえって相手との距離を見失ってしまう。だから、こじれたり、諸々出てくる。それだけで説明しきれるものではないと思いますが、一つの理由ではあろうかと思います。

さらに言えば、「会いに行ける」という条件があるからこそ、「推し」という概念は確固たる地位を得たのかも知れません。「会いに行ける」という具体的な行動があるから、距離感だって自分で決められる(ような気がしてしまう)。

そっか。そうすると、「推し」ってそれが人が対象である場合、細心の注意を払って、距離感を考えねばならないのだなと…ふと思ってしまったですよ。うん。相手も生身。私も生身。だからこそ。

私には私の地獄があるように、
相手は相手の地獄を抱えている。

「推し活」にこそ肝に銘じておくべき言葉なのかもしれません。

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今日もここまで読んでくださり
ありがとうございます。
今日がいい日でありますように。
んじゃ、また。

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