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編集者という肩書きにもやもやする

今、私は編集者という肩書きを名乗っています。

やってきた職業としても間違ってないし、やりたきことともあってるし、問題はないんだけど、もやもやする。

編集者という言葉の広さ

なんでかって、編集者という肩書きは良くも悪くも意味が広いのです。

まず、ひとくちに編集といっても漫画・雑誌・書籍・WEB…それぞれの業界で手法もお作法も違います。私は漫画と書籍はできません…!

それに加えて、昨今は編集者が自らSNSでアカウントを持つことで流通網を持ったり、媒体に囚われない企画を打ち出したり、場の編集をしたり、もっともっと広い意味での編集をしにいったりと、「編集者」という肩書き自体が進化しているように思うのです。

私はまさに広い意味での編集を目指しているのですが、世間一般で言う編集者(特に雑誌編集)って記事を作る人、だったりするので「編集者なの?じゃあこの雑誌のこの企画、こんな感じで決まってて◯ページだから編集おねがい!」っと言われても「すみません…私できれば企画を考える前提の、なんなら目的に対してどの媒体が最適?とか考える段階から携わらせて頂きたく…」みたいな感じになってしまう。(もしかしたらこれ、雑誌だけかな…。書籍とかは自分で全部やらないとだもんな…。私の肌感覚なので諸説あるかもです。)

だから、安易に編集者(特に雑誌編集者)と名乗るとちょっと誤解されやすいんじゃないの?と思うのです。

なんでそんなに肩書きにこだわるのか

肩書き、ぶっちゃけどうでも良いじゃん?という話もあるのですが最近、兼松佳宏さんの講座で伺った考え方がしっくりきて、やっぱりこだわりたいなと思ったのです。

以下、リンク先の文章の抜粋です

そもそも肩書きの役割とは、自分と他者とのコミュニケーションをより円滑にするために、自分のことについて端的に知ってもらうための糸口を提供することです。

べつに見栄や名誉、自分を大きく見せるためじゃなく、私のことをできるだけ簡単に、早く、正しく知ってほしいのです。

なんで?と問うと、いつもnoteの1番最初のエントリに戻ってきます。

私は、これからの人生での「視座が共有できるひと」を増やしたい。価値観が一緒とか、一緒にいて楽、とかじゃなくて「視座が共有できる人」。

そういう人って人生に何人も見つかるものじゃないと思うのでなおのこと、出会ったときに私のことをよく知らずにすれ違ってしまうことのないように、「私はこういうことを考え、動いている人です!」っていうのを正しく伝えたいなと思うのです。

編集者でも間違ってないから本当に全然ダメじゃないし、なんなら愛着も愛情もすごいある肩書きなんですが、他にもっと良い肩書きがあるのではないか…とぐるぐる思ったりする今日このごろでした。

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