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プロフィール

初めまして、デザイナーの芳賀(ハガ)と申します。

最近、久々にNoteを開きまして、ちょこちょこ記事を書いてみています。
そういった中で、記事からプロフィールにお越しいただく方もいるようで。しかしながら、このプロフィールも「今は昔」といいますか、過去の自分のものという感覚がしましたので、改めてプロフィール書き直して見ようと思います。

多くの経験を通して、ここ10年の価値観や物の見方は大きく変わったような実感があります。社会に出て、色んなものを見て、聞いて、感じて。


現在地と近況

今は、以前のように、複数の肩書きを持って活動はしておりません。
純粋に「デザイナー」として、クリエイティブの力で企業様や個人の方々の支援をさせていただいております。

これまでのあゆみ

思えば、20歳頃から学生デザイナーとして活動をはじめて、約11年が経過しました。一度は経済的な理由や家庭の事情から諦めた道でした。けれど、自分の気持ちに素直に、浪人覚悟で働いて稼いで進むと腹を括ってよかったと改めて思います。

高校時代の作品(油彩・F50)

高校在学中に、卒業後はどうするのか、と同級生に聞かれました。
「浪人覚悟で稼いで、お金貯めて、自分の力で大学や専門機関に進学するよ。」と答えると「進学するお金も出してもらえないなんて、哀れだね。」なんて笑われたこともありましたが、気持ちは1ミリも揺らぎませんでした。

逆に自分で稼いだお金で進学するからこそ、余すことなく吸収して、与えられた機会を活かしたいと動機づけができました。そのお陰で、大学時代は休む間もなく駆け回って、色んな経験と学びを得られたのだと思います。けれど、それは決して苦ではなく、溢れる好奇心のままに探究ができる楽しい時間でした。

そんな大学の4年間もあっという間に過ぎ、念願のデザイナーとしての就職も果たし、同時に大学院で教育の研究も開始しました。

20代後半の自己紹介資料(講演等で活用)

2018年10月に独立開業もいたしまして、晴れてフリーランスデザイナーへ
独立から2ヶ月後、専門スクールの先生・運営スタッフというオファーもいただきました。また当時、趣味で習い始めたグラフィックレコーディングがお仕事に昇華しまして、活動のフィールドを広げつつ、気づけば4足のわらじに(笑)

忙しい忙しいと言いながらも、毎日のように新しい出会いや気づきに溢れていて、とても充実していました。特に自分の知識やスキルを誰かに伝えるという指導の経験をさせていただけたことは、今でも大きな糧になっています。

指導するという立場に立って

スクールの現場に初めて立たせていただいた時は、正直オドオドしました。毎日知識をアップデートしているという自負もあり知識量には自信があるはずでした。けれど、自分が理解していると思っていることでも、いざ他者に伝わるように話すとなると、理解に対する穴があったり、言語化しきれていなかったりして、上手く説明しきれないということを実感して。

そういった気づきを顕著に感じたのは、質問をいただいた時。
自分自身が学ぶ側に立っていた時には疑問にも思わなかったことを質問としてもらうとハッとする瞬間がありました。「なんとなくそういうもの」と自分が気にも留めていなかったことが、沢山あると気づかせてもらって。

そういった時、自身の中にある知識や仮説はお伝えするものの、学習する方と一緒に「なぜ?」を突き詰めて、新たなインプットをしながら共にディスカション・考察し、学びを深めていくことに「学びの本質」があるように感じていました。

教えるだけでなく、それ以上に気づきをもらっていた教員生活

特に、技術者として自分自身を確立するには、やはり小手先で「なんとなくそれなりに出来てしまう」ということの怖さがあると私は考えています。
今は沢山の方があらゆる媒体で情報発信している時代ですので、誰かのつくったパーツやコードを使ったらなんとなく出来ることもあると思いますが、それ故に「その技術がどんな技術を使用した何であるか」を知らずに、ネットに落ちているモノをそのまま使うことにはリスクが伴うことも。まして、発注を受けた納品物に入れ込んでしまえば、クライアントに不利益や損害を与えてしまう可能性もゼロではないでしょう。

そういった技術者として仕事をしている自分の考えや経験もあり、あらゆる選択肢がある中で「なぜ、その選択をするのがより最適なのか」ということをスクールで学ぶ方にお伝えをしてまいりました。

「業界がそういう慣習なんだから”それ”を入れておけば間違いないよ」「分からなくても課題の解答を見てなぞっておけばいい」とお伝えする先生もおられたり、学ぶ方の目的や温度感も異なったりするので、その人その人に合った伝え方を日々模索していました。

同時に日々強く感じていたことは、自分の行動や発する言葉1つ1つが、学びにきている方々の人生に良くも悪くも影響を与えることの重さと責任。
修了した方が必ずしもスクールで学んだ先にある職業にならなければならないとは思ってはいません。つくることが好きな人・得意な人、企画や戦略を立てることが得意な人、黙々とプログラムに向き合いことが得意な人、色んな性質を持つ方がいるので。ただ、学びに来たことを後悔してほしくはないなと思い、願っていました。だからこそ、厳しいご意見は積極的に聴き、改善のための施策を考える、そうして重みを実感して。

20代の経験を経て「いま」

そういった生活を2,3年続けていました。上役から「お前なら寝ないでやればできるだろ!」と言われればやるしかない立場もあり、栄養ドリンクとカフェイン飲料を数時間置きにとっては何とか体を動かす。昔は数日寝なくても無理の効いた体も、段々無理が効かなくなっていき、それが病気や症状として全身に現れて、最後には突然動けなりました。自分が突然動けなくなったことで、沢山の方にご迷惑もおかけしてしまいました…。

家族や友人たちが献身的に支えてくれたこともあり、時間はかかりましたが今は日常を取り戻せました。普通にご飯を食べて働いて家事をして寝る、そういった「当たり前の生活」が送れることが「当たり前でないこと」を改めて実感しました。

そして、未だにモノづくりが続けられる心身が在ることに強く感謝しています。人は失ってからそのものの大切さに気づくとはよく言いますが、失わずして済んだことは不幸中の幸いと言えるかもしれません。今はその喜びをかみ締め、クリエイターとしての生を全うしたいという気持ちになりました。

今は「無理をしない(自己犠牲で公私のあらゆる物事を成立させない)」と「自分と繋がりをもってくれる友人や家族との時間や思いを大事にする」という2つを生活の基本として生きています。

無理をしない、これ「ホント」大事。

無理をしないことの大切さ

自分がこれまで無理をしてきたからこそ、何かを犠牲に無理をして成せることがあるのも理解した上で、あえて無理をしない選択をしようと。

自分が無理をして何とかしてAを成し遂げると、次はBを期待される、Bが成せればCを期待されるし、無理せずBを成せなければ「Aは出来たのに、なぜBができない!また無理すればBができるだろ!」という方も世の中にはいて、その期待を裏切ることで関係が破綻することもあると実感しました。

最初から無理をしても誰にとっても良いことないと、今は思います。
この無理で成せる限界突破にも上限があると感じていて。

自分が骨を折ることで相手との関係が成立しまっていると、いつも骨を折ることを期待されてしまうことがあるように思います、それは公私どちらでも。そして、折る骨がなくなれば「なぜもう骨を折れない」「もっと心を強く持て」と鼓舞されるものの、もう骨を折りようがない。骨が折れない = 使えないなら、私は要らなくなってしまう。そういった都合の良い関係性は、永遠には続かないものですね。

時代は「Well-bing」ですね

あって当たり前なモノはない

先述の通り、自分が当たり前だと思っていたものが消失する経験する中で、何でもかんでも「あって当たり前」「できて当たり前」などと思うべきではないなと実感しました。

この「当たり前 / 当然」なものは、あくまで自分が思っている価値観によるものなのだと。生まれた環境や育った環境が違えば自然と異なるものなのだと思います。

だから人は、自分の中の「当たり前」と相手の「当たり前」を押し付け合うことで「揉める」というトラブルになるのだろうと思います。けれど、自分が当然だと思っていることを疑う視点自体、人は持ちうるのだろうか、とも実体験の中で感じている部分でもあり。そして、互いの主張がヒートアップするうちに、自分の当たり前を固く譲れないものになっていくー固執というのかもしれません。

皆、自分の中に「自分にとっての常識(=当たり前)」をあれこれ持っているのだから、まずは聴く耳を持ち、相手を否定はせず「そうなんだね」と、あなたのその常識が今ただ此処にある事実だけを認める。そして「私は〜という考えを持っている」という、その事実のみを伝えれば良いのではなかろうか

というのが、今の自分にとって解(対応の仕方)です。

それでも自分の信じているものや積み上げてきたことを否定されると「カッ」となる気持ちが一瞬湧きますが、(今このシチュエーションでこのテーマに対する私の価値観を)相手にそこまで理解してもらわなければ理由があるのだろうか、と考えるようにして、心を落ち着けます。

逆に、相手の「常識」を語られると「なるほど、こういう視点もあるのか〜」と気づきを得られたり、相手がどのようにしてそういった思想や価値観を築きあげてきたのか、私はその背景に興味湧きます。

そして、こういう自他のやり取りを俯瞰してみると、当然という意識があるものに対して、そもそも感謝の心がなくなっていることに気づく自分がいます。

私にとって「当然なモノ・コト」の先にはもちろん誰かしらの「人」がいるのだと思うんです。その誰かは、私がよく知る人かもしれないし、全く知らない人かもしれないけれど、何かの目的や役割のために動いてくれている人がいる、それを当たり前だと思ってしまうと何でも他責できてしまうと最近感じました。

枠にハマらない、相手を枠に押し込まない、自分を枠に押し込めない

コロナ禍で世界経済が低迷し、生活が苦しくなったり、健康を失ってしまった人、命を落としてしまった人がいる、この混沌とした世界で。
たった一人の自分の常識なんて、いつひっくり返るかなんて分からない、そいうい時代に私たちは身を置いているのだろうと感じています。

経済的に・肉体的に・精神的に疲弊する。疲れて自分がいっぱいいっぱいになってくると、誰しも相手に対する優しさや思いやりを持てなくなるのだろうと。皆、基本はそうなのだと思います。

だから「人の優しさ」というものは、その人の心の余裕の上に成立させてもらてきたものなのだと思うと感謝をしても、相手の優しさが見えなくなったことに自分が腹を立てるのはお門違いなのかもしれない、と。

「今まで私はこの人の優しさや思いやりに甘えさせてもらっていたんだ。」そう捉えれば「ありがとうね。色々苦労かけたこともあるよね。私が今あなたにできることは何かあるかな。」と、少しだけ私も今より優しくなれるかな。

もちろん、自分が疲弊し切っている時にいつも思いやりを忘れられず、優しさや思いやりをもって人に接することができるかと言われると、正直難しいでしょう…。だからこそ自分が疲弊し切るまで「無理しない」という結論に至りました。

人間関係を良好に、自分が嫌になるような陰険な状態にならないためにも、健康管理が大事だと…やっとわかりました、31歳…。
仕事がパフォーマンス落ちずにできてればOK…ではないのだと(笑)

そんな価値観をもって、今は仕事もプライベートも目の前のことに精一杯向き合っています。関わってくれる人を、自分を思い遣ってくれる人を、自分なりに大事にしていきたい。

自己紹介にしては何やらヘビーな感じもするし、果たしてこれが自己紹介なのかも微妙ですが、こういうパーソナリティのクリエイターです。
改めまして よろしくお願いします。


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