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登山も人生も、好奇心探求心と、歩むプロセスが幸福度を決める

せっかちな私は登山するのも、せっかちだった。
急いで頂上を目指す。早く着きたい、頂上に着くことだけが目標。頂上に着けば、目標は達成。道端に咲く花や草に目を向けたこともなかった。
時間の余裕があるのに、いつもせっかちで頂上だけを見て登っていた。

そんな私を変えてくれたのは、ニュージーランドの友人たち。
一緒に登山したとき、友人たちは、道端の草を見て、木を見て、花を見て、『これはなんの花かな?』『この木はね、、、(木の説明)』『このキノコ食べられるよ、持って帰ろうか』、と立ち止まり、触ってみたり、近づいて眺めてみたり、匂ってみたり、集めてみたり、好奇心が満載。
『これは馬の足跡』『これは豚のフン』『この鳴き声は○○という鳥の鳴き声だね』『このキノコは動物が食べた痕がある』とそこにいる動物の存在も楽しむ。
五感をフルで活用して、常に楽しみながら歩く。

疲れたから休憩するのではなく、ただ自然を感じるために、座り込んでみたり、寝転んでみたりする。

ランチは頂上で食べる!という思い込みのあった私は、頂上に着く前の道端で食べたり、頂上から下山しているときに食べるとを共にして、あっさりと思い込みが外れた。どこで食べてもおいしい。

頂上や目的地についても、そこで記念撮影などするわけでもなく、するすると下山道へ進んで、また大自然の中を楽しむ。

彼らは、どこに着くか、が大切でなくて、山道を歩く、ということを楽しんでいる。植物を見て、森林を見て、足を動かして運動して、『綺麗だったね』『気持ちよかったね』『楽しかったね』と言って終わる。

私は感動が薄いのか、頂上に着いても景色に大感動するのことは、ほとんどない。綺麗だ、とは思うけれど『へえー、これがこの山の頂上の景色か、OKです』という小さな感動で終わる。
小さな感動のために、自分を追い込んで、最小限の疲労回復のためだけの休憩をとり、山道の道端には意識を向けず、一直線に頂上だけを目指して、歩き続ける。私は登山を楽しいと思ったことはなかった。

でも、ニュージーランドで友人たちと出会い、共に登山することで、登山の楽しさや気持ちよさを知った。山道を五感で楽しむ。山によっても季節によっても植物は変わり、山道を進むにつれて道端の植物も変わってくる。美しい鳥の音色を聞き、動物の残した存在感を見る。気温も天気も太陽の位置も海の色も光の入り方もどんどん変わっていく。心地よさや自然を感じるためにただ座り込んで感じてみる。楽しむのは、頂上の景色や達成感だけでなく、登っていく道のりや下っていく道のりのプロセス。
自然の中、自分の感覚をフル稼働し、全身で楽しむ。そんなことを教えてもらい、共にすることで、登山が楽しい、心地よいと感じるようになった。自然に対して探求心・好奇心を持つことが、どれだけ楽しめるか、に関わる。
登山も、探求心・好奇心を持つことが、幸せな登山時間に変わるのだと確信した。

今でも日本でひとりで登山するとき、せっかちなゆえにひたすら頂上を目指し、苦しいしんどいと感じていることがある。そんなとき、ふと周りの自然に意識を移し、プロセスを楽しめているか、好奇心や探求心を持てているか、周りの花や草に目を向けているか、鳥の声が聞こえているか、今太陽がどこにあるか知っているか、と自分に問いかける。そして、座り込んで深呼吸してみる。今ここに意識が向き、道のりを楽しむことに意識が向く。頂上に着いたか、だけでなく、登りも下りも楽しめたか、というプロセスが登山の楽しみや幸せを決める。

人生によく似ている。ただ成功や頂上だけを目指して生きるのか、プロセスを楽しんで生きるのか、幸福度は違う。人生幸せかどうかは、結果ではなく、プロセス。どう人生歩んだか、歩んだ日々の道のりが自分の幸せを決める。

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