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自分の環境を幸せと捉えるか不幸と捉えるか、愛するか憎むか、笑いにするか


家族のことを話せなかった私は、自分の中で感情に蓋をして、消化しきれていなかった。話すことが恥ずかしい、弱みを見せたくない、と感じていた。
そんな思いも全て手放し、私はスクールの子どもたちに話してみた。

姉がうつ病のとき、家中に包丁が転がっていたことやリンゴにぶっ刺して廊下に置いていたこと、窓ガラスを割ったことなど、話したときは、子どもたちは爆笑だった!「おもしろい!笑える!」と言っていたり、「うつ病ってなに?なんでお姉ちゃんはそうなったの?」「なんで家にそんな何本も包丁あったの?」と聞いてきたり。
子どもの視点はおもしろい。笑い話にしたつもりはなかったけど、相当ウケが良かった。「子どもにわかりやすくうつ病を説明するってどうしようか」という言葉の内容の柔軟性を考えるきっかけもくれた。

母が門限を破った私にバケツの水かけた話をしたときは、「え?お母さん何でそんなことするの?」と引いていた。これこそ私の中では笑い話のつもりだったが、子どもはただ驚いていた。

心臓のペースメーカーの電池交換で入院したとき、7歳の甥っ子に「なんで入院したの?」と聞かれたため、「心臓を動かすための機械の電池を変えたの」と説明すると、「え!ロボットだったの、、、」と本気で言っていた。発想がおもしろくて、私は返す言葉が見つからず、ロボット発言に「そうだったのかも」とだけ返答した。

母に「うちの家庭環境最悪だったよね」と話してみた。そんなこと言ったのは初めてだった。母は驚くこともなく、「そうよ、うちは普通じゃないからね」と言った。その返答に私は驚いた。自分の家庭環境を否定しても良いんだ、「普通だ、恵まれている」と思っていたのは、ただの私の思い込みだった、と気づいた。

自分の中での捉え方は、自分の価値観でしかない。他人に話してみる、自分
をさらけ出してみる。そしたら全然違う捉え方が返ってくるときがある。それが自分にとっての新たな価値観になる。

自分の環境を幸せと捉えるか不幸と捉えるか、愛するか憎むか、笑いにするか、決めるのは全部自分自身。自分で決められる、ならば私はどれを選びたいか。不幸に向き合って幸せに変えられるだろうし、憎しみに向き合うから愛することだって出来るのだと思う。幸せだと、愛していると、無理にポジティブに思い込むのではなく、心からそう思えるようになるには、自分の中でその問題に向き合わなければならない。そして向き合ったその先に、誰かにとっての救いになったり、笑いになる話になっていくのだと思う。

そして幸せ、愛しているとなり、笑い話になっても、自分の感情は自由で良い。家族に会えば、腹が立つときも、温かくて涙が出ることも、好きなときも、嫌いなときも全部ある。そして全部を感じてOKにしている。どう感じるかは自由だし、どう感じたって良い。不快感を感じたならば、また向き合って、笑い話にして、誰かに話してみる。きっとそんな繰り返しで、人生のネタがどんどん増えていく。

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