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自死を防ぎたいナース ’Cuz you don't deserve to die.

 今から約10年前。看護学生時代に暗記させられたこちらの表。たぶん国試にも出ました。

2020年のデータだが
10年前も今も大きな変わりはない


 どう思いますか?

 ちなみにG7の他の国では若年世代の死因は事故が多いです。
 10代の私は相当ショックを受けました。



 私がたまにメンタルヘルスに関する記事を書いている関係で、さまざまなお悩みや生きづらさを抱えた方々と交流する機会が増えました。

 meronagiさんもその一人。


 気持ちを言語化するのがとても上手なお方だと感じます。私なんかが物を言える立場ではないのですが、1ミリでも楽になればと思い、たまにコメントさせていただいております。

 今回はmeronagiさんとやりとりをする中で考えたことや思い出したことを中心に書いてみようと思います(ご本人に許可をいただいています)。完全な雑談です。





1.辛かった時の話、今後の対策


 7年くらい前でしょうか。自分でもびっくりした出来事がありました。

 当時は結婚していたのですが、私のせいで離婚することになり、たぶん私は人生で一番落ち込みました。辛かった10代をくぐり抜けてやっと幸せを掴みかけたのに、自分の手でぶち壊したのですから。家族に会わせる顔がないどころか、生きる資格を剥奪されたと感じたんです。

 ある夜、いてもたってもいられなくなった私は軽自動車を飛ばして山道へと向かいました。走り屋に煽られながらブレーキもろくに踏まずに峠道を飛ばします。もちろん運転に自信はないです。

 街灯もない真っ暗な山の中で私は全てのライトを消しました。完全な暗闇です。別にロープや練炭を用意してきた訳ではありません。ただ消えてしまいたかったんです。私はそもそも生まれてこなかったことになって、みんなの記憶から消え去りたい。そう思ったんです。もちろんカーブを曲がりきれずに転落死したり獣に襲われることも望んでいました。心の中で家族に謝りながら。

 今だったら深夜の山道なんて絶対に入れませんが、あの瞬間だけは我を失っていました。恐怖心よりもこの苦しみから逃れたい、ここじゃないどこかに行きたいという気持ちが勝っていたんですね。死が私のすぐ近くまで来た瞬間だと思います。


 その後の20代後半も散々でした。私は自分を大切にできず、思うように愛してやれず、遺書も書きました。

 でも、ある時から自分の中で決めていることがあります。

 それは「今度死にたいくらい辛いことがあったら全部投げ出す」ということです。

 プライドもキャリアも人間関係も財産も。全部を投げ打って私は社会から隠れるつもりです。自分のことを誰も知らない場所で卑怯に生きていきます。全人類に中指を立てながらFワードを連呼し、依存できるものには全部依存して生きていこうと思っています。

…さすがにちょっと大袈裟ですが笑。ありきたりだけど「生きてこそ」なんですよね。生きてれば状況が好転する可能性は0じゃない。でも死んでしまったら0ですからね。

 ちなみに離婚して地元に戻ってきたから愛犬と出会えましたし、大好きな祖父母とたくさんの時間を過ごせているから結果的に良かったかなって思っています。こじつけかもしれませんが、結婚していた時よりも明らかに今の方が幸せなんです。

呼んだ??


2. 今の私にできること


 芸能人の自殺報道を見るたび、その孤独な胸の内を思い、一人旅立つ決心をした寂しい背中を想像しては泣いてしまいます。ちょっと気色悪いですが、抱きしめてあげたかったなぁと思うんです。自殺を思いとどまらせることはできなくても、最後に人の体温を感じてほしかったと思います。

 苦しんでいる誰かのために何か具体的にできることはないかと、Xの投稿やYouTubeのコメント欄で辛そうな人を見かけては声をかけたり、いのちの電話のボランティアを考えたり(時間的に厳しく断念しましたが)、細々と自分にできることをやってきました。

 ひょんなことから今年の4月にnoteを始め、ある程度まとまった量の文章を読む機会が増えました。みなさん色とりどりの言葉でしんどさを表現されています。それらは時に身を削られるように辛く、またある時には美しいとすら感じます。自分の死生観がどんどん揺さぶられて看護師の仕事とはまた違う感覚です。ターミナル期の患者さんは身体的に死に向かっていますが、ここには精神的に死に向かいそうな方が大勢います。そして病気は健康な心身だけではなく、生きるための夢も希望も奪い去ってしまうのだということを思い知らされます。

 noteを読んでいて共感したり声をかけたくなったらコメントさせていただいています。なるべくその方の文章から伝わる人となりを想像して言葉を選んでいます。読んでいますよ、側にいますから、という思いを込めて。

 全く関係ない映画レビューの記事を出すときも、私の記事を読んでいる最中だけでも辛いことを忘れてもらえたら良いなぁと思いながら書いています。しんどいときは2時間の映画なんてとてもとても観られませんからね。私のレビュー記事を読んで鑑賞したつもりになって気を紛らわせてほしい(さらに落ち込む内容の映画も多いためそこは要注意)「へぇこんな映画あるんだぁ」と、凝り固まった心が少しでも動いたなら私はとても嬉しいです。映画や絵画に触れることは私にとっても大切な気晴らしです。


3. 死にたい気持ちの芽を摘みたい



 「死にたい」に行き着くまでには「ちょっとキツイな」→「疲れたなぁ」→「頑張らなきゃ」→「頑張らなきゃ」→「頑張らなきゃ」→「やっぱりダメだ」という多くの段階を経ていると思います。

 私はこの「ちょっとキツイな」の時点で何かしら対策をとるべきだと思いますし、本当に「頑張らなきゃいけない」場面なんて滅多にないと思っています。そりゃたまにはありますけど、そこまで自分に鞭打ってやらなきゃいけない時点で、環境が合っていないような気もしますしね。自分の性格や発達特性と周囲の環境を調和させるのは至難の業ですが、近づけるための工夫や努力は必要だなと思います。自分はこういうのが苦手でこれとこれはできません、と言うスキル。めっちゃ大事だと思います。

 ちょっと話は変わりますが、この前うちの救急外来にリストカットした女の子が運ばれてきました。外科医が診察し「縫っても意味ない」とカルテに書いていました。つまり「またどうせ自分で切るから意味ない」ということです。

 ちゃんちゃらおかしいです。縫うことに意味はあります。傷口の感染を防ぎ治りを早めてくれます。また切ったら然るべき処置をして、切る以外の方法で心を落ち着ける方法を模索していくのが筋道ですよね。でも今の医療界における精神疾患患者に対する扱いは専門医でない限りこんなのがザラです。医療者ですら腫れ物扱いをします。私は何度も何度も目の当たりにしてきました。悔しいし本当にやるせない気持ちになります。

 この女の子にとってはリストカットが「辛いよ」のサイン。人によってはそれが眠れないだったり、お風呂に入れないだったり、部屋が片付けられないだったりする。ガリガリに痩せたいだったり、手が汚いだったりもする。自分のサインも他人のサインも、見逃してしまうと取り返しのつかないことになるかもしれないので、ゆるーくでもアンテナは張っておきたいものですね。「死にたい」の芽は小さなことがきっかけでニョキニョキと成長しますから。




 まとまりのない文章ですみませんでした。

 鎌を持った死神は音もなく私たちの隣にやって来て、今もじっとチャンスを伺っているかもしれません。力づくで抵抗する屈強さではなく、酔拳のようにかわすしなやかさを身につけたいなと思う今日この頃です。

 よければこちらの記事もどうぞ。


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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