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10年目看護師が向き合う死。

 先日、2年以上関わっていた患者さんがご逝去された。具合良くなかったから、そろそろだなと思ってはいたけど。
家族の前では泣かないようにエンゼルケアをした。
ご遺体の髪の毛を洗って全身を拭き、お気に入りの服に着替えさせてメイクする。

「この人あなたに会えるの、ずっと待ってたのよ」って帰り際に家族に言われた。

家に帰ってソワソワ落ち着かないから
無心でお風呂掃除することにしたんだけど
床ゴシゴシ擦ってたら涙が溢れてきた
泣き始めたら止まらない
(こんな時だけ彼氏が欲しいわ)
昨日会話したばっかりなのに、もう声が聴きたいんだよね

看護師していて、先輩に怒られた以外でこんなに泣いたのは初めてかもしれない。

 医療関係の仕事をしていると、死との距離は必然的に近くなる。
看取った患者さんは数え切れない。
自分の死生観が否が応でも揺り動かされる。
一時期はこれがすっごく嫌だった。
自分は当時まだ20代で、老いとか病とか死が一番遠い時期なのに、何で毎日触れなきゃいけないのか。同年代の他の仕事している人はきっとこんな世界知らないのに。知る必要もないのにって考えてた。「そんなのまだまだ先だし、うちらには関係ないよね」って生きられる人たちが羨ましかった。

 それでも何とかしがみついて、一応中堅と呼ばれるようになった。今はまたちょっと違う死のイメージを持っている。死は何も特別なイベントではなくて、見えないだけでいつもすぐ側にいる。
事故や災害で突然人生が終了するかもしれない。
よくあるのは「だからこそ今を大切に」っていう考え方だ。でも私はむしろ逆で「だからこそもっと適当に」と思う。

 真剣に取り組むべきタイミングや悩んだ方が良い決断もあるけれども、20歳以降の人なら50年経ったらみんな高齢者だし、100年後には誰もいなくなる。これってすごいパワーを持っていて、こういう風に考えると辛いこととか嫌なことを我慢している時間って本当に馬鹿げていると思える。変えられない過去について何度もぐるぐる考えたり、他人のことについて悩んでもどうにもならない訳で、どれだけ深刻に悩んでも誰かがその頑張りを称えてくれる訳でもなく、そのうち死んで灰になるのだ。それだったら一回でも多く好きな物食べて、後回しにしてた映画を観て、素敵な小説に出会って、ずっと行きたかったところに行くべきだ。

 哲学者のように難しい顔して人生の真理について深く追求しても(私はそういう人好きだけど)、毎日快楽だけ求めてちゃらんぽらんに生きても、待ち受けるのはおんなじ死。格差が広がる資本主義社会の中でそこだけは平等だ。これを憎いととるか、ラッキーととるか。意見が分かれそうだ。

これらは全て患者さんが命をかけて教えてくれたこと。お金を払って買える経験ではない。

不要な足かせは外して、
自由な心をあっちこっちに羽ばたかせながら、
夢ばかり見て生きませんか。
あなたの判断で国が滅びたりはしないのだから。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。




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