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よちよちクリスチャンの聖書ノート

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幼子のようなクリスチャンの私が、幼子のような目で聖書から発見した真理をお伝えします。
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#キリスト

聖書は本当は何と言っている?

聖書、それは一体誰のものでしょう。 聖書自身が次のように教えています。 世の中にはたくさんの聖書解釈があります。そして、それらは必ずしも一致するものではありません。そんな教派の一つを、自分の信じるものとして採用してしまってもいいものでしょうか。イエス様の時代、パリサイ派とサドカイ派、どちらが正しかったでしょう。 残念ながら、どちらも間違っていました。 人々が真理に立つには、主流派の神学から脱出する以外になかったのです。 正しいのは、神の言葉、聖書だけです。つまり、私たち

癒やされる人、癒やされない人

はじめに聖書には、イエス・キリストによる癒やしの奇跡がたくさん書かれています。 ところが、イエス様でさえ癒やせなかった人たちが聖書には出てきます。 それは誰でしょうか。なぜ癒やせなかったのでしょうか。 そもそも、癒やしとは一体、何だったのでしょうか。 これはとても大切なことですから、ご一緒に聖書から確認してみましょう。 癒やされなかった人たち癒やされなかった人たち。それはナザレの人々です。彼らは幼少期のころからイエス様を見てきた人たちです。まさか自分たちの知人がメシア

人は何によって救われるのか

はじめに今回は、「人は何によって救われるのか」という大切な話です。 結論から言えば、「信仰と恵みによる」という言葉のニュアンスを、私たちは見直さなければならないときにきています。 もともとの教えはヘブライ語かつてイエス様は、人々に向かって、聖書には何が書かれていたのかを教えて回りました。 その聖書とは、旧約聖書です。 これはヘブライ語で書かれたものでした。 イエス様が天に昇られてからは、弟子たちがその教えを宣べ伝えました。 やがてそれらは紙に書かれ、今では新約聖書と

真理に歩むとは

はじめに「真理」という言葉は、私たち日本人にとって「本当のこと」という程度の意味しかありません。 それで、「真理」を知っていれば、真理に属している気になるのです。 けれど、ユダヤ人にとっては違います。 彼らにとって「真理」とは、歩むものなのです。また、従うものであり、行うものなのです。 私たちもこの認識を持たなければ、けっして真理を受け取ることはできません。 ご一緒に聖書から確認してみましょう。 真理とは何か異邦人である私たちは、ピラトと同じ質問をするでしょう。

新約とは

はじめに「旧約」「新約」とは何でしょう。 それは契約です。 聖書は、「古い契約」と「新しい契約」について教えてくれます。 私たちは誰でも、神と契約を結ぶことができるのです。 その契約の内容とは、一体どんなものでしょうか。 誤解を生んできた教えまずは、一般的に教えられている解釈を見てみましょう。 あながち間違いではありませんが、これは大変な誤解を生みます。 それは、「新しい契約に入った人は、律法を守らなくてよくなる」という誤解です。 断じてそうではない、と聖書は

なぜ律法があるのか

はじめにあなたは律法が好きですか。 クリスチャンであっても、意見が分かれるのではないでしょうか。 律法とは何でしょう。 神様は、どうして律法をお与えになったのでしょうか。 これを正しく知らなければ、真のクリスチャンとはいえません。 今、ご一緒に聖書から確認してみましょう。 律法がなければ罪がない?多くのクリスチャンが、勘違いしていることがあります。 それは、「律法がなければ罪はない」とか、「律法が罪を制定した」という認識です。 そうではありません。 先にあったのは

分離されていないクリスチャン

はじめに私は長年、キリストの側に分離されていないクリスチャンでした。 ただ自分が救われていることを確信し、世の人々と同じように歩んでいました。 なぜなら「クリスチャンは全員救われる」という教えを信じていたからです。 けれど、それは聖書の教えではありませんでした。 世から分離されているクリスチャンの方々を見たとき、私はショックを受けました。自分が滅びる側の人間であったことを、はっきりと悟ったのです。 あなたはどうでしょうか。 謙遜さが残っているなら、必ずあなたは変わ

律法主義とは

はじめに律法主義とは何でしょう。 多くのクリスチャンが、この言葉を間違って使っています。 今、正しく認識することで、聖書の恵みに与りましょう。 律法を守ることは律法主義か律法を一生懸命守ろうとする人を、律法主義だと非難する人たちがいます。 これは間違いです。 イエス様は、すべての律法を守り通しました。 私たちにも、同じ歩みが求められています。 ここで使われている「戒め(エントレー)」という言葉は、神の律法である十戒を表す言葉です。 これはモーセ律法とは区別されます

なぜ救い主が必要なのか

はじめに私たちは、なぜ「救い主」を必要とするのでしょうか。 自分は「救われた」と思っているクリスチャンでも、「救い主」は必要なのでしょうか。 ご一緒に、聖書から確認してみましょう。 私たちは裁きを受ける人には、一度死ぬことと、裁きを受けることが定まっている、そう聖書は教えます。 この裁きによって有罪とされる人は、火に投げ込まれると聖書は教えます。 ここで注意してください。 義人だけが残るのです。 これこそが、私たちに「救い主」が必要な理由です。 天国に入る基準天

神の民とは

はじめに聖書には、神の民とか、聖なる国民という言葉が出て来ます。 これは誰のことを指しているのでしょうか。 一体誰が、神によって聖なる民とみなされるのでしょうか。 ご一緒に、聖書から確認してみましょう。 聖書の教える聖なる民聖なる民となるには、条件があります。 聖書は、神の契約を守る人が、聖なる民なのだと教えています。 契約とは、具体的に何でしょう。 それは十戒であると書かれています。 ですから、十戒を守る人が、聖なる民なのです。 エレミヤの預言神は十戒を与え

マフィアの信仰

はじめにマフィアの中には、イエス・キリストの贖いを信じる人がたくさんいます。 彼らは、自分たちの罪が赦されることを確信し、天国に行けることを心から信じて、安心して麻薬取引や殺人を行っているのです。 もちろん彼らは、キリストが自分たちの罪の身代わりとなって死に、墓に葬られ、三日目によみがえったことを心から信じています。 このような信仰について、聖書は何と言っているでしょうか。 とても大切なことですから、ご一緒に確認してみましょう。 世の終わりについての教え多くの教会は

罪からの解放とは

はじめに聖書が「罪からの解放」について教えていることは、皆さん知っていることと思います。 けれどもこれを、「罪が赦されること」だと思っているクリスチャンがたくさんいます。 かつての私もそう思っていました。 確かに、キリストは私たちの罪を赦してくださいました。そして、何度でも赦してくださいます。 しかし、これを「罪からの解放」だと考えるなら、私たちは本当の恵みを受け取ることができません。 これはとても大切なことですから、ご一緒に確認してみましょう。 クリスチャンは罪

人は罪を犯さない者になれるのか

はじめに私たちは罪を犯さない者になれるのでしょうか。 クリスチャンであっても、意見の分かれるテーマかと思います。 今、聖書が何と教えているか、確認してみましょう。 聖書の教えキリストに留まる者は誰も、罪を犯さない、これが聖書の教えです。 キリストは律法違反を取り除くために現れたのであり、律法に違反する人は誰も、キリストを知らないのだと聖書は教えます。 このことに同意しますか? まずは、同意するか、拒絶するか、私たちは選ばなくてはなりません。 ここで、教派の教えを捨

救いの恵みを失う、ただ二つの条件

はじめに私たちは、価なしに、神の恵みによって義とされると聖書は教えます。 ところが聖書は、ある二つの条件により、私たちがこの恵みを失う可能性があると教えます。 とても大切なことですから、ご一緒に確認してみましょう。 恵みを失う条件その1 自分の行いに頼るとき今の時代、律法によって義とされようとする人はいないかと思います。 けれど、罪を犯してしまう自分を見て「こんなことでは救われない」と考えてしまうことはないでしょうか。 気をつけてください、それは恵みから落ちようとし