救いの恵みを失う、ただ二つの条件
はじめに
私たちは、価なしに、神の恵みによって義とされると聖書は教えます。
ところが聖書は、ある二つの条件により、私たちがこの恵みを失う可能性があると教えます。
とても大切なことですから、ご一緒に確認してみましょう。
恵みを失う条件その1 自分の行いに頼るとき
今の時代、律法によって義とされようとする人はいないかと思います。
けれど、罪を犯してしまう自分を見て「こんなことでは救われない」と考えてしまうことはないでしょうか。
気をつけてください、それは恵みから落ちようとしている人の姿です。
私たちが律法を行うことで、義とされるのではありません。
キリストの功績が私たちに及ぶので、義とされるのです。
このことを信じて最後まで歩む人には、もれなく永遠の命が約束されています。
この恵みを信じ、私たちは平安を得ていいのです。
恵みを失う条件その2 自分の行いをなくしたとき
もしも、行いをなくしているなら、その人の恵みは放縦へと変わり果てています。
神から生まれた者は、罪を犯しません(Iヨハネ3:9)。
罪を犯すことは、神の恵みを侮ることだと教えられています。
現代の教会は、この警告を無視する傾向にあります。
それは、命を失う道、滅びへとつながる広い門なのかもしれません。
今、聖書の言葉に耳を傾けてください。
あなたは恵みを放縦に変えてはいないでしょうか。
恵みの御霊を侮ってはいないでしょうか。
恵みから落ちた人
聖書には、神の約束を軽んじて、恵みから落ちた人がいます。
ヤコブの兄エサウがそれです。
長子の特権とは、相続権のことです。
これは御国の相続権を持つ私たちへの訓戒なのです。
ここで聖書は何と教えているでしょうか。
「恵みから落ちないよう、
相続権を軽んじることなく、
淫らな者、俗悪な者とならないようにしなさい」
そう教えているではありませんか。
このことをよく知っておかねばなりません。
たとえ御国の相続権を持っていたとしても、不品行、汚れ、貪欲を続けるなら、その人は相続権を失ってしまう、それが聖書の教えなのです。
これに反して「救いを失うことなどない」と教える人がいますが、それは聖書の教えではありません。
この警告を軽んじて地獄へ行くなら、もはや悔い改めの機会は残っていないのです。
おわりに
救いの恵みを失う「二つの条件」をお分かりいただけたでしょうか。
その一つは、恵みを信じず、自分の行いに頼り始めたときです。
もう一つは、恵みを信じず、自分の行いをなくしたときです。
そうならないためにも、このことを覚えてください。
聖書の教える恵みとは、私たちが罪を離れ、義に生きるようになることです。
この恵みを信じないなら、恵みから落ちてしまうでしょう。
それなのに今や、多くの教会がこの恵みを信じていません。
キリストの功績をもってしても、自分たちは罪から離れられず、義人にはなれないと思い込んでいるのです。
それはあまりにも、十字架の力を侮る行為です。人間の常識に囚われて「無償でそのような恵みをもらえるはずがない」と疑っているのです。
もう、そんな不信仰を続けてはいけません。
「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる(ローマ3:24)」と書いてあるではありませんか。「義を行う者が義人である(Iヨハネ3:7)」と書いてあるではありませんか。
私たちは罪を離れ、義に生きることができます。そのように聖書が教えているからです。
この恵みを信じましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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