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救いの恵みを失う、ただ二つの条件

はじめに

私たちは、価なしに、神の恵みによって義とされると聖書は教えます。

ローマ人への手紙
3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

ところが聖書は、ある二つの条件により、私たちがこの恵みを失う可能性があると教えます。

とても大切なことですから、ご一緒に確認してみましょう。

恵みを失う条件その1 自分の行いに頼るとき

ガラテヤ人への手紙
5:4 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている

今の時代、律法によって義とされようとする人はいないかと思います。

けれど、罪を犯してしまう自分を見て「こんなことでは救われない」と考えてしまうことはないでしょうか。

気をつけてください、それは恵みから落ちようとしている人の姿です。

ローマ人への手紙
11:6 しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。

私たちが律法を行うことで、義とされるのではありません。
キリストの功績が私たちに及ぶので、義とされるのです。

このことを信じて最後まで歩む人には、もれなく永遠の命が約束されています。
この恵みを信じ、私たちは平安を得ていいのです。

恵みを失う条件その2 自分の行いをなくしたとき

ユダの手紙
1:4 そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵み放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。

もしも、行いをなくしているなら、その人の恵み放縦へと変わり果てています。

神から生まれた者は、罪を犯しません(Iヨハネ3:9)。
罪を犯すことは、神の恵みを侮ることだと教えられています。

ヘブル人への手紙
10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。
10:28 モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、
10:29 神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。

現代の教会は、この警告を無視する傾向にあります。
それは、命を失う道、滅びへとつながる広い門なのかもしれません。

今、聖書の言葉に耳を傾けてください。
あなたは恵み放縦に変えてはいないでしょうか。
恵み御霊みたま侮ってはいないでしょうか。

恵みから落ちた人

聖書には、神の約束を軽んじて、恵みから落ちた人がいます。
ヤコブの兄エサウがそれです。

創世記
25:34 そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた

長子の特権とは、相続権のことです。
これは御国みくにの相続権を持つ私たちへの訓戒なのです。

ヘブル人への手紙
12:15 だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。
12:16 また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。
12:17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

ここで聖書は何と教えているでしょうか。
「恵みから落ちないよう、
 相続権を軽んじることなく、
 淫らな者、俗悪な者とならないようにしなさい」
そう教えているではありませんか。

このことをよく知っておかねばなりません。
たとえ御国みくに相続権を持っていたとしても、不品行、けがれ、貪欲を続けるなら、その人は相続権を失ってしまう、それが聖書の教えなのです。

エペソ人への手紙
5:5 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない

これに反して「救いを失うことなどない」と教える人がいますが、それは聖書の教えではありません

この警告を軽んじて地獄へ行くなら、もはや悔い改めの機会は残っていないのです。

ルカの福音書
16:27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
16:28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

おわりに

救いの恵みを失う「二つの条件」をお分かりいただけたでしょうか。

その一つは、恵みを信じず、自分の行いに頼り始めたときです。
もう一つは、恵みを信じず、自分の行いをなくしたときです。

そうならないためにも、このことを覚えてください。
聖書の教える恵みとは、私たちが罪を離れ、義に生きるようになることです。

ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会(別訳より)

この恵みを信じないなら、恵みから落ちてしまうでしょう。

それなのに今や、多くの教会がこの恵みを信じていません。
キリストの功績をもってしても、自分たちは罪から離れられず、義人にはなれないと思い込んでいるのです。

それはあまりにも、十字架の力を侮る行為です。人間の常識に囚われて「無償でそのような恵みをもらえるはずがない」と疑っているのです。

もう、そんな不信仰を続けてはいけません。
「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる(ローマ3:24)」と書いてあるではありませんか。「義を行う者が義人である(Iヨハネ3:7)」と書いてあるではありませんか。

私たちは罪を離れ、義に生きることができます。そのように聖書が教えているからです。
この恵みを信じましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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