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人は何によって救われるのか

はじめに

今回は、「人は何によって救われるのか」という大切な話です。

結論から言えば、「信仰と恵みによる」という言葉のニュアンスを、私たちは見直さなければならないときにきています。

もともとの教えはヘブライ語

かつてイエス様は、人々に向かって、聖書には何が書かれていたのかを教えて回りました。

その聖書とは、旧約聖書です。
これはヘブライ語で書かれたものでした。

イエス様が天に昇られてからは、弟子たちがその教えをべ伝えました。

やがてそれらは紙に書かれ、今では新約聖書としてまとめられています。

ここで注意してください。

ヘブライ語の教えが、イエス様によって解説され、ギリシャ語で紙に書かれたのです。

当然、ヘブライ語の単語の中には、ギリシャ語に存在しない単語もあります。

「エムナ」という単語がそうです。

信仰と訳された言葉

信仰信仰、と私たちは言いますが、驚くことに、旧約聖書には「信仰」という言葉は出てきません。

ただ一箇所だけ、「信仰」と訳される箇所があるだけです。

ハバクク書
2:4 見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰(エムナ)によって生きる

ヘブライ語の「エムナ」という単語が、ただ一箇所、ここだけ「信仰」と訳されているのです。

理由は、新約聖書でこの箇所が引用されており、その際に「信仰」と訳されているからです。

ローマ人への手紙
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

しかし、これでいいのでしょうか。
先にあったのは旧約聖書のほうです。これでは順番が逆ではありませんか。

エムナの意味

「義人はエムナによって生きる」これがもともとの教えです。

ハバクク書のこの聖句は、新約聖書で三度も引用されています(ローマ1:17、ガラテヤ3:11、ヘブル10:38)。救いに関して、とても重要な聖句だからです。

エムナの直接の意味は、堅さ、固定、しっかりしていることです。

また、「真実」「忠実」という意味も持っています。

申命記
32:4 主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実(エムナ)なる神であって、偽りなく、義であって、正である。

列王記 第二
22:7 ただし、彼らの手に渡した金の精算がなされる必要はない。彼らは忠実(エムナ)に働いているからである。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

これらがエムナの意味です。
驚くことに、「信じる」という意味でエムナが使われる箇所は、一箇所もないのです。

ギリシャ語への置き換え

「エムナ」と同じ意味を持つ単語は、ギリシャ語にはありませんでした
それで仕方なく、「ピスティス」という単語が採用されました。

ピスティスの意味はこうです。
忠実真実、信仰、信じる。

「忠実」「真実」まではいいのですが、ここで「信仰」「信じる」の意味が混じってしまったのです。

けれど本来、そのような意味は旧約聖書にありませんでした。
弟子たちは「忠実」また「真実」という意味で、ピスティスを採用したのです。

「義人はエムナによって生きる」

当然、ヘブライ語の分かる弟子たちは、この意味を正しく理解していたことでしょう。

私たちも、この意味を回復しなければなりません。

「義人は忠実によって生きる」そう教えられていたのです。

行いのない信仰

「義人は忠実(エムナ)によって生きる」この教えの中に、「行いは不要」という余地はありません。行いがないなら、それは忠実とは言えないからです。

行いのない信仰は、ヘブライ語のエムナが、ギリシャ語のピスティスに置き換わっていく過程で生まれたものと想像できます。

そのような間違った考え方を、聖書は厳重に注意しています。

ヤコブの手紙
2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。

ヤコブの手紙
2:26 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。

おわりに

人は、恵みにより、信仰によって救われると聖書は教えています。

ただし、この「信仰」という言葉は、ヘブライ語の「エムナ」から来ており、その意味は「真実」また「忠実」であることを忘れてはいけません。

人は、恵みにより、忠実によって救われるのです。

「義人はエムナによって生きる」

死ぬべき運命にあった私たちは、エムナによって、生きることが可能となるのです。

なぜなら、そのような人を、イエス様は救ってくださると書いてあるからです。

ヘブル人への手紙
5:8 彼は御子みこであられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、
5:9 そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠のすくいの源となり、
5:10 神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである。

「信じるだけ」という教えは、聖書とはかけ離れた教えです。

ピリピ人への手紙
2:12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分のすくいの達成に努めなさい

これが聖書の教えです。
ともに、いっそう従順でいて、救いの達成に努めましょう
最後まで従順だった人を、イエス様は救ってくださるのです。

聖書から真実を取り戻し、本来の教えに立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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