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救いの確信の罠
はじめに
これは、かつて私を捕らえていた罠の話です。
以前の私は「福音の三要素」なるものを知っているだけで、
自分の天国行きは確定しているのだと思っていました。
そればかりか、その確信がない人を、不信仰だとさえ思っていました。
ところが、それは大間違いだったのです。
聖書の教え
「自分の天国行きは確定している」そんな考え方を、聖書は明確に否定しています。
ピリピ人への手紙
2:12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
以前の私は、自分の救いの達成に努める人々を、完全に見下していました。
「神の恵みも知らない人々」と決めつけ、裁いていたのです。
あなたはどうでしょうか。
以前の私と同じように、救いの達成に努める人々を、見下してはいないでしょうか。
もしそうなら、あなたは失格者になろうとしています。
すぐにでも、聖書に立ち返らなくてはなりません。
コリント人への手紙 第一
9:27 むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。
救いの確信を持つ人々
終わりの日、救いの確信を持つ人々がことごとく追い出されてしまう様子を、主は次のように述べられました。
マタイの福音書
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
追い出されてしまったのは、救いの確信を持っていた人たちです。
確信を持っていたとしても、それは何の意味もないのです。
主の教えは続きます。
マタイの福音書
7:24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
7:25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
7:26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
7:27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
私たちの結果を変えるのは、行いです。
行う者だけが堅く立ち、行わない者はひどい倒れ方をする、これが主の教えです。
すると必ず、こう叫ぶ人たちが現れます。
「行いがなければ救われないというなら、それは異端だ!」
以前の私も、そう叫んでいたに違いありません。
しかし、それはこう叫んでいるのと同じではありませんか?
「おい、イエス! 行いが必要だと言うおまえは、異端だ!」
何ということでしょう。
いつから私たちは、主を否定するようになってしまったのでしょうか。
「行いは必要ない」とする教えは、人の勝手な教えであることを覚えてください。
ヤコブの手紙
2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
本当の救いの確信
どのようなカルト集団も、救いの確信は持っているものです。
しかし、それが彼らを救うのではありません。
本当の救いの確信は、自分の救いが完成しているとか、天国行きが確定しているなどと思い込むことではありません。
イエス・キリストという医者によって、罪の病が癒やされ、義に生きられるようになる、それを信じることが、本当の救いの確信です。
そのためには、従順を貫かなければなりません。
医者に従う人だけが、その治療を受けられるからです。
ヨハネの福音書
3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。
御子に従わない者は、命に与らない。
このことを、あなたは本当に理解しているでしょうか。
憂慮すべきこと
するとある人は、自分の救いが確定していないことを知って、心配に取り憑かれてしまうかもしれません。
しかし憂慮すべきことは、自分の救いが確定していないことではありません。
神様の命令を思い出してください。
マタイの福音書
5:48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
憂慮すべきは、完全でなくとも構わないと考えていた、己の不従順です。
これは滅びを招きます。
エペソ人への手紙
5:6 あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
平安を得るには、「本当の恵み」を知る必要があります。
本当の恵み
聖書の教える「恵み」とは何でしょう。もう罪を犯してもよくなったということでしょうか。多くの説教者が、そのようなニュアンスで教えています。
しかし、それは滅びの教えです。
恵みとは、その真逆です。
「もうけっして罪を犯すまい」そのような思いを、私たちの中に芽生えさせてくださること。そして、その実現に向けて助けをくださること、それが恵みです。
「信じる者は裁かれない」とは、そういう意味です。
神の助けを信じて義に歩む人は、けっして有罪の判決を受けることはなくなるからです。
十字架の犠牲は、まさにそのためだったと書かれています。
ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
この恵みを受け取ってください。
主はあなたを癒やそうと、戸をたたいて待っておられます。
救いの確信を得る方法
救いの確信を得たければ、自分があの取税人のようであるかを確かめてみてください。
ルカの福音書
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
あなたはこの取税人のようだったでしょうか?
それとも以前の私のように、「自分の天国行きは確定している」と考え、そうでない人々を見下すような人だったでしょうか。
それはパリサイ人の姿です。
そんな人が、どうして胸を打ちながら「罪人の私をお赦しください」と言えるでしょう。
取税人は、「自分の天国行きが確定している」などとは考えていません。
罪から離れたいのに、どうしてもそれができない自分を嘆き、助けを求めて神の前にひれ伏したのです。
これこそが、従順な人の姿、癒やされる人の姿です。
自分がこのようであるならば、私たちは救いの確信を持ち続けることができます。
おわりに
間違った確信を持つことは、とても恐ろしいことです。
とはいえ、どんなに警告しようとも、多くの人は耳障りの良い教えを手放さず、広い門から入って行くでしょう。聖書がそのように教えているからです。
マタイの福音書
7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
あなたはどうしますか?
どんな教えも、聖書に優先されてはなりません。
聖書をよく吟味し、広い道から狭い道へと方向転換しましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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