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癒やされる人、癒やされない人

はじめに

聖書には、イエス・キリストによる癒やしの奇跡がたくさん書かれています。

ところが、イエス様でさえ癒やせなかった人たちが聖書には出てきます。

それは誰でしょうか。なぜ癒やせなかったのでしょうか。
そもそも、癒やしとは一体、何だったのでしょうか

これはとても大切なことですから、ご一緒に聖書から確認してみましょう。

癒やされなかった人たち

マルコの福音書
6:5 そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。
6:6 そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた──

癒やされなかった人たち。それはナザレの人々です。彼らは幼少期のころからイエス様を見てきた人たちです。まさか自分たちの知人がメシアだとは、とても思えなかったのでしょう。

そのような不信仰な人々を癒やすことは、イエス様にも不可能だったのです。
これは神の全能性を否定することではなく、人の自由意志に関する問題です。

癒やされた人たち

反対に、癒やされた人たちはどのような人たちだったでしょうか。

マタイの福音書
9:22 イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。

信仰のある人たちです。

そして、よく見てください。イエス様はいつも、これを「救い」と呼んでいました。

ルカの福音書
8:48 そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

ルカの福音書
17:19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。

ルカの福音書
18:42 そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。

ここに真理があります。
これこそが、イエス様が癒やしを行っていた最大の理由なのです。

癒やしこそ、救いである

癒やしとは、救いを表現するものであり、それを受けるには信仰が不可欠なのです。そのことを教えるために、イエス様は人々を癒やして回ったのです。

マルコの福音書
2:17 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

私たちが自分を罪人と認めるなら、この医者は私たちの所へ来てくれます。

反対に、「私は盲人ではない。真理を知っている」というなら、癒やされることはありません。

ヨハネの福音書
9:41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。

このような人を、しゅは癒やすことができません。しゅの能力が足りないのではなく、彼らの自由意志を尊重するために、そのままになさるのです。

ヨハネの福音書
12:40 「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。

予定説を唱える人々はこれを曲解して「神は救われない人々をあらかじめ決めた」と言いますが、そうではありません

人々の意志がそのようであったため、目をくらんだままにさせ、心をかたくななままにされたということです。

テモテへの手紙 第一
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。

あなたは癒やしを信じていますか?

癒やしこそ、救いなのです。
そして先ほど確認したとおり、信仰がなければ癒やされません。

つまり、癒やされることを信じ、従っていなければ、けっして救われることはないのです。

ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

救いとは、私たちの内側の癒やしです。私たちは罪を離れ、義に生きることができるのです。

十字架にはその力があり、その癒やしを受けた人が信者であると、聖書は教えています。

この癒やしを信じますか?

癒やしではなく、ゆるされることが救いだとする教え

確かに、ゆるされることもまた、救いの一部です。
しかし、それは救いのスタート地点に過ぎません。これを救いのすべてと考えるなら、私たちの信仰は眠ってしまうことになります。

使徒の働き
17:11 ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた
17:12 そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった──

神学書や牧師の説教に頼らず、イエス・キリストを教師とし、聖書を教科書としている人であれば、本物の教えにせ物の教えの区別がはっきりとわかるはずです。

本物の教え

救いとは、癒やしです。私たちが罪を離れ、義に生きるために、しゅは十字架にかかられたのです。

ヨハネの手紙 第一
3:6 キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。
3:7 幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。
3:8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子みこが現れました。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

人は律法の行いで救われるのではありませんが、癒やされた人は、その行いによって信仰が証明されることを、イエス様ははっきりと告げられました。

マタイの福音書
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

ヨハネの福音書
5:29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。

ルカの福音書
6:49 しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。

おわりに

癒やしとは何だったのか、また、どのような人が癒やされるのか、おわかりいただけたでしょうか。

癒やしとは救いであり、私たちが罪を離れることを指していたのです。

癒やされるためには信仰が不可欠です。癒やされることを信じ、従っていなければ、けっして救われることはありません。

ヨハネの福音書
5:14 そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。

「もう罪を犯してはいけない」かつてこれは、教会で当たり前に教えられていました。

ところが、この善良な教えを、私たちは見失ってしまったのです。

ゆるしこそ救いであり、ゆるされた人は天国行きが確定している・・・このような間違った教えが、病気のように蔓延してしまったからです。

ヘブル人への手紙
10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。

正しい教えは、聖書から回復するしかありません。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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