癒やされる人、癒やされない人
はじめに
聖書には、イエス・キリストによる癒やしの奇跡がたくさん書かれています。
ところが、イエス様でさえ癒やせなかった人たちが聖書には出てきます。
それは誰でしょうか。なぜ癒やせなかったのでしょうか。
そもそも、癒やしとは一体、何だったのでしょうか。
これはとても大切なことですから、ご一緒に聖書から確認してみましょう。
癒やされなかった人たち
癒やされなかった人たち。それはナザレの人々です。彼らは幼少期のころからイエス様を見てきた人たちです。まさか自分たちの知人がメシアだとは、とても思えなかったのでしょう。
そのような不信仰な人々を癒やすことは、イエス様にも不可能だったのです。
これは神の全能性を否定することではなく、人の自由意志に関する問題です。
癒やされた人たち
反対に、癒やされた人たちはどのような人たちだったでしょうか。
信仰のある人たちです。
そして、よく見てください。イエス様はいつも、これを「救い」と呼んでいました。
ここに真理があります。
これこそが、イエス様が癒やしを行っていた最大の理由なのです。
癒やしこそ、救いである
癒やしとは、救いを表現するものであり、それを受けるには信仰が不可欠なのです。そのことを教えるために、イエス様は人々を癒やして回ったのです。
私たちが自分を罪人と認めるなら、この医者は私たちの所へ来てくれます。
反対に、「私は盲人ではない。真理を知っている」というなら、癒やされることはありません。
このような人を、主は癒やすことができません。主の能力が足りないのではなく、彼らの自由意志を尊重するために、そのままになさるのです。
予定説を唱える人々はこれを曲解して「神は救われない人々をあらかじめ決めた」と言いますが、そうではありません。
人々の意志がそのようであったため、目をくらんだままにさせ、心を頑なままにされたということです。
あなたは癒やしを信じていますか?
癒やしこそ、救いなのです。
そして先ほど確認したとおり、信仰がなければ癒やされません。
つまり、癒やされることを信じ、従っていなければ、けっして救われることはないのです。
救いとは、私たちの内側の癒やしです。私たちは罪を離れ、義に生きることができるのです。
十字架にはその力があり、その癒やしを受けた人が信者であると、聖書は教えています。
この癒やしを信じますか?
癒やしではなく、赦されることが救いだとする教え
確かに、赦されることもまた、救いの一部です。
しかし、それは救いのスタート地点に過ぎません。これを救いのすべてと考えるなら、私たちの信仰は眠ってしまうことになります。
神学書や牧師の説教に頼らず、イエス・キリストを教師とし、聖書を教科書としている人であれば、本物の教えと偽物の教えの区別がはっきりとわかるはずです。
本物の教え
救いとは、癒やしです。私たちが罪を離れ、義に生きるために、主は十字架にかかられたのです。
人は律法の行いで救われるのではありませんが、癒やされた人は、その行いによって信仰が証明されることを、イエス様ははっきりと告げられました。
おわりに
癒やしとは何だったのか、また、どのような人が癒やされるのか、おわかりいただけたでしょうか。
癒やしとは救いであり、私たちが罪を離れることを指していたのです。
癒やされるためには信仰が不可欠です。癒やされることを信じ、従っていなければ、けっして救われることはありません。
「もう罪を犯してはいけない」かつてこれは、教会で当たり前に教えられていました。
ところが、この善良な教えを、私たちは見失ってしまったのです。
赦しこそ救いであり、赦された人は天国行きが確定している・・・このような間違った教えが、病気のように蔓延してしまったからです。
正しい教えは、聖書から回復するしかありません。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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