律法主義とは
はじめに
律法主義とは何でしょう。
多くのクリスチャンが、この言葉を間違って使っています。
今、正しく認識することで、聖書の恵みに与りましょう。
律法を守ることは律法主義か
律法を一生懸命守ろうとする人を、律法主義だと非難する人たちがいます。
これは間違いです。
イエス様は、すべての律法を守り通しました。
私たちにも、同じ歩みが求められています。
ここで使われている「戒め(エントレー)」という言葉は、神の律法である十戒を表す言葉です。
これはモーセ律法とは区別されます。
モーセ律法を守らせようとすること
かつて、異邦人にもモーセ律法を守らせようとするクリスチャンが現れました。
この結論は、次のように締めくくられています。
モーセ律法を自主的に守ることは、けっして悪いことではありません。
しかし、それを他人に守らせようとすることは、聖書の教えではありません。
もし守らせようとするなら、それは律法主義です。
十戒を守らせようとすること
注意してください。
十戒については、先ほどとは逆のことが教えられています。
十戒は、守るように教えなければなりません。
十戒を守ること、また、守るように教えることは、律法主義ではありません。
律法の精神を忘れること
律法の精神は愛であり、文字どおりに守ることが大切なのではありません。
もしも愛を忘れて文字に仕えるなら、それは律法主義です。
救われるために律法を守ること
救われるため、また、義とされるために律法を守ろうとすることも、律法主義です。
それはキリストを必要としない方法であり、必ず失敗する方法です。
とはいえ、気をつけてください。
律法を守っていないなら、その人に救いはないのです。
愛のゆえに律法を守る。それが真のクリスチャンです。
愛がなければ、すべてのことは無益です。
現代の律法主義
律法主義を簡単に説明すると、行いや形式によって救われようとすることです。
気をつけてください。
多くのクリスチャンが律法主義を嫌いながら、じつは律法主義の状態にいます。
教会に通っているから、私はクリスチャン。
洗礼を受けたから、私はクリスチャン。
そのようなものを神の民であることの根拠にしているなら、それは律法主義、形式主義にほかなりません。
大切なのは、サタンの支配にあった私たちが、神の支配に移っているかどうかです。
真のクリスチャンは、律法に心から服従し、一つの罪さえ犯さないように励んでいます。
絶えず主に祈り、誘惑があるたびに助けを求めているのです。
おわりに
律法主義とは何か、おわかりいただけたでしょうか。
それはけっして、律法を守ろうとすることではありません。
信仰によらず、形式によって自分をクリスチャンと位置づけること、それが律法主義なのです。
間違った言葉の使い方のせいで、多くの人が道に迷っています。
人の教えを捨てて、聖書の教えに立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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