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「お取り寄せ」更科そば!十割・二八・半々・三七・外ニ。体験記vol.59(厳選お取り寄せTOP100)

新しい生活様式が提唱され、三密を避けた新生活がスタートしています。そんな新生活の中で、今まで携わらなかった家事に携わる経験を積み日々の大変さを実感しました。そんな経験から週に一度は、私自身がおもてなしをすることで、家族や友人・愛する人を楽しませたいと考えるようになりました。
男(45歳)のプライドと品格を維持しながら家族や友人・愛する人が楽しく、喜んでもらえるおもてなしを実現するために、一流のプロが持つ技・味・盛り付け(名店レストランのお取り寄せ)の力を借りながら、学び、修業を積み、私自身の男力を磨き、最高のおもてなしを実現させたいと思います。
こちらの「お取り寄せ」体験記では、スマートに「おいしい!食」でおもてなしができる・「驚いてもらえる大人の贈り物」が贈れる、大人の男力向上を目指す事で、すべての愛する人々を笑顔と喜びであふれさせる事ができる男を目指すと共に、20年に渡り携わった食業界での知見と私が見聞き学んだすべての情報をフルに生かし、徹底的に厳選したお取り寄せ品をご紹介させていただきます。

 「外食産業応援!」 一助となれれば幸いです。

男のたしなみV0(本日のおもてなし「更科そば 堀井」)

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(商品概要) 【更科そば 「堀井」】
  (こだわり・特徴)
 ・創業寛政元年
 ・そば一筋に230年
 ・のど越しの良い白いそば
 ・更科そば発祥のお店

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販売期間 : 通年

【更科そば 「堀井」】
(商品購入はこちら) 
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男のたしなみV1(そばのルーツ)

 飲んだ後の〆はラーメンという方は非常に多いと思いますが、私の〆は蕎麦です。この章ではそばのルーツに迫りたいと思います。多くの日本の食文化は大陸からの伝来ですが、そばの原産地も中国雲南省ヒマラヤあたりという説が有力です。
 そばの栽培が日本で始まったのは縄文時代と言われ、高知県内の9000年前の遺跡からそばの花粉が見つかり、その時代からそばが栽培されていたと考えられています。
 歴史的文献には、797年の史書「続日本記」にそばが初めて登場します。現在のそばは、細長い麺をイメージされると思いますが、当時のそばは麺ではなく、そば粉を湯でてこねた餅状の「そばがき」や「そばもち」が主流でした。現代のイメージする麺状のそばは、そば切りと言われ1614年に江戸常明寺で振舞われたものが最古とされています。
 そばは餅状の食べ物から進化を遂げ、江戸時代ではそば粉につなぎとして小麦粉を混ぜる製法が打ち出されました。そば粉のみは「十割」、小麦粉2に対してそば粉8の比率のそばは「二八」同様に「三七」・「半々」も誕生します。そば粉10として小麦粉2の割合を「外二」という通好みの製法も生み出されていきます。
 今では、最寄り駅の周辺には必ず蕎麦屋さんが暖簾を掲げていますが、お店としてのそば屋さんが開店したのも江戸時代で、代表的なお店として信州の行商人(清右衛門)が「信州更科蕎麦処」を開業し、江戸中で大人気となりました。また同時期に「藪そば」も誕生し、江戸中にそば屋が広がり1860年ごろには、江戸府内のそば屋は3763店にもなりました。
 年越しそばなどの習慣もこのころ生まれ、金銀細工師が、飛び散った金粉・銀粉を、そば粉を使って集めていたことから、縁起をかついで掛け金の回収前にそばを食べるようになった事から、そのげんかつぎが晦日や大晦日にそばを食べるという習慣として広まった。また、引っ越しの挨拶に「そばに参りました」の意味を込めてそばを贈る習慣も江戸時代に起きたとされる。

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男のたしなみV2(更科そばの特徴)

更科そばの特徴を語る前に、更科そばの歴史や発祥について触れていきます。
 更科そばは、寛政元年に麻布永坂高稲荷下に創業した、更科堀井によって誕生します。初代は当時行商人として働いていた清右衛門という人物が始め当時の看板は「信州更科そば処 布屋太兵衛」として大変繁盛します。
 ちなみに「更科」とは、信州そばの集散地だった更級の「級」の音に、当時の領主・保科家から許された「科」の字を当て、「更科」とした様です。
 更科そばの特徴の一つが、白い色をしたそばです。「一番粉」と呼ばれるそば粉を原料として作られます。一番粉は、そばの実を挽いた際に出てくる胚乳の中心部分だけを集めたものであり、甘皮などが混ざらないため、白くなります。このような製法で作られた更科そばは、ほのかな甘みと、のど越し際立つ食感で、多くの美食家から愛され歴史を重ね、高級そばとしての地位を確立してきました。

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男のたしなみV3(更科そば 7代目にして廃業)

更科蕎麦の発祥は行商をしていた清右衛門が、名を改め太兵衛とし開店した「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」です。お店は有名になり大変繁盛しますが、七代目松之助さんの時に、昭和恐慌の影響で「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」は1941年に廃業になります。その後松之助さんから許諾を受けたとする馬場繁太郎が「永坂更科本店」を掲げて開店します。
 この名称をめぐり裁判となりますが、松之助さんが渡した承諾書が出てきたため、「永坂更科本店」を「麻布永坂 更科本店」とすることなどを条件に和解することとなります。
 昭和24年に七代目松之助さんが堀井家や職人を集め「永坂更科 布屋太兵衛」を創業します。明治8年の苗字必称義務令により「布屋」から「堀井」に屋号を変更することとなります。
 昭和59年には八代目の堀井良造氏が独立し「総本家 更科堀井」を開業したことで、麻布十番には更科そばの老舗が3店舗「総本家 更科堀井」・「麻布永坂 更科本店」・「永坂更科 堀井太兵衛」ならぶ更科そばの聖地となっているようです。

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男のたしなみV4(江戸前そば御三家)

現在多くのそば屋さんが存在しますが、御三家は江戸時代に生まれた「藪」「更科」「砂場」からなるそばの御三家です。どの屋号も1軒のそば屋さんから始まり、兄弟や親戚、弟子などが暖簾分けをして世界中に広がっています。
 藪そばは、幕末の頃、東京・根津の団子坂にあった「蔦屋」が発祥と言われています。「蔦屋」は藪に囲まれていたことから、通称「藪そば」と呼ばれていました。それがいつしか店名になったようです。下町の粋なそばの代表でつゆの濃さは御三家随一と言われています。
 更科のルーツは信州出身の堀井清右衛門が、江戸の街に「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」の看板を掲げたのが始まりとされています。そばの実の中心の粉で打つ純白のそばで、繊細な喉ごし・上品な味わいから御膳そばとも呼ばれる。
 砂場の発祥は大阪。藪と同じく砂場は通称で、大坂城築城の際の資材置き場だった砂場近くに店があったことに由来すると言われています。「ざる」はそばの実の中心の粉を卵水で、「もり」は甘皮を含んだ粉を水だけで打つことから、もりそばは甘みが立ち、香りも豊か。ざるそばは喉越しがよく、軽やかな味わいが特徴。

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まとめ

更科そばの特徴は白い色をしたそば。きめ細やかなこだわりの製法から生まれた更科そばは、多くの美食家から愛され、高級そばとして今も君臨している理由がよくわかりました。
いつも感じることですが、美味しく食べていただきたい一心で、研究に研究をかさね現代に受け継がれ、現代でもさらに美味しく食べていただくため少しづつ進化したもののみが後世につながり未来に残り続けるのですね。「想いは形になる」と聞いたことがありますが、想いの深さが形にするのですね。今回は、お取り寄せでの体験でしたが、「更科そば(堀井)」を体験させていただいたことで、「そば」のルーツやこだわりを感じることができました。私の「そば」の教養も披露させていただき、皆様に大変喜んでいただきました。男(45歳)のブランドを損ねることなくさらに磨きをかけることができました。V59達成です。

【更科そば 「堀井」】
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※次回の続、男のおもてなしも楽しみにしててください。

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