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不登校でも、やってやる

〜不登校の僕がデザイナーを目指すまで〜

はじめに

私ごとではありますが、この度2年間通った起業家育成高等学院を卒業します。2020年の4月に入学してから早いもので、もう2年が経とうとしています。多くの人に触れ、多くの場所に行き、多くの人に本当にお世話になった濃厚な2年間でした。入学してから顔も身長も、あまり変わっていませんが内面は大きく良い方に変化したのではないかと思います。(自分で言うのもあれですが、、、)

2年半前、不安障害・パーソナリティ障害a郡と診断され精神的な病気で辛い時期がありました。
マクドで注文する時に緊張しすぎて足が震え、注文できず、走って逃げたこともありました。
マクドで注文すら出来なかった不登校の僕が、
今では写真で歯を見せて笑い、多くの人の前で話すこともできている。
その様に変化できた2年間の経緯と今やりたいことをつづって、残していこうと思います。
元々、大学に進む予定のなかった僕が武蔵野美術大学に進学することになったまでの経緯
今考えていることなど、沢山記録していきます。
かなり、長い文章になりそうです。
読む方、どうか怒らず温かい目で拝読してくださいますと幸いです。

僕はデザイナーを志した

最終的に僕は人に共感してもらえる様なカッコいいビジョンを掲げることは出来なかった。
けれど、「人としてどう在りたいか。どう生きたいか。」
時代が移り変わっても絶対に変わらない自分の軸を持つことができた。
僕にとってデザイナーとは、目指す在り方、立ち位置なんだ。
ただの職業としてでなく、生き方として、在り方としてデザイナーを目指している。

どんな企業も学校も
最初は「誰かを幸せにするため」に生み出されたはず。
でも、意識しないうちに最初の想いは消えていき
「人のため」に出来たモノはいつの間にか
「数字や維持のため」に変わり、人を依存させ人を支配するモノへ変質してしまう。

デザイナーという職業には
そういう変質してしまった本来の価値を取り戻す力があるんじゃないかと思っている。
もう1度、人のためのモノに戻す力が。

編入編

普通科時代、
僕の未来は、大人に決められていた。
大人は、僕らの意見に関心を持ってくれなかった。
みんなも未来を選択できないことに無力感を感じていたと思うし、
関心を持ってくれない社会が冷たく感じていたと思う。

元々、僕は普通科の高校生でした。
紆余曲折あり、起業家育成高等学院へ転校し今に至ります。
どうして僕が転校したのかをこの章でお話しできればと思います。

スケートボードが好きなスケーターであり、パソコン部の部員。
前の高校では普通の学生だった。
中学では皆勤賞を取っていたし、不登校とは無縁の存在だった。
そんな僕がどうして不登校になったのか。
極度の飽き性だったからかもしれないけど、
「違和感に向き合ったこと」
これが僕を不登校へ、起業家育成高等学院に導いてくれた。

最初に感じた違和感は「クラスメートと話が合わない」ことだった。
僕は当時、パソコン部に所属しており、ビジネス書を読んでいたことや
堺という治安の悪い場所で中学時代を過ごし、スケートボードやヒップホップに出会い
様々な生き方をしている大人達が周りに沢山いたことなど、
社会に触れる機会が多くあったため、
学校と社会の間に大きなズレがあることを感じていた。

∈ 大学合格実績も全然ない高校なのに、
 朝早くから夜の8時くらいまで授業がある詰め込み式の教育
 校則もめっちゃ厳しかった。

同級生に「将来、何したい?」と聞くと、「公務員でいいかな」「大企業に入りたい」
大人が喜ぶ解答ばかりだった。

電車の窓から見える、すべて均一化された都市の姿と学校が重なって見えた。
進んでも進んでも変わらない景色。
自由意志のない学び、全員同じ夢を描いている姿が。

何かがおかしい。
高校生が子供が夢を描けない社会。
夢を描けなくしているのは学校なんじゃないか。

「自分の未来は、自分で決めたい」
たとえ、どんなに不都合なことがあったとしても
自分で選んだ未来じゃないと嫌だ。
人に未来を決められたくない。

そんな考えから不登校になり、学校の勉強を辞めた。
そして自分の興味関心と向き合うための時間にあてるようになった。
親にバレないように学校に通うフリをして、スタバに通い、
プロゲートやコトラーのマーケ本など、プログラミングや経営学を勉強するようになった。

父が単身赴任、母も介護業で朝早くに家を出て行っていたので、数ヶ月は不登校であるということがバレなかった。

バレても許してくれる。
話を聞けば理解してくれる。そう考えていた。
けれど、現実はそう甘くなかった。
理解してくれない。ではなくて、話を聞いてくれなかった。
不登校というだけで、非難されるのが現実だった。

「普通に生きて」と母に泣き叫ばれたり、
教師にも否定されたり、無視されたり、
関心を持って話を聞いてくれる人が周りにおらず、孤立していた時期があった。

母に信用してもらえないというのは自分にとって凄く苦しかった。
信じてくれると思っていた人に信じてもらえない。
ずっと関心を向けてくれていた人から無関心な対応をされ続けると
自分自身で自分の存在価値を疑うようになる。

あの時は精神的に辛かった。

そんな時期もあったが、
不登校になって学校と距離を持てば持つほど高校を客観視できるようになり、
このままずっと、この高校にいたら自分の気持ちもいつの間にか消え去り、
「自分で自分の未来を決めたい」という想いが成されないまま
大人が作った未来を生きるんだろうなと思い、退学を決意するようになった。

∈ もちろん大きな不安もあった。そんな時は本が力をくれた。
嫌われる勇気の「退学届一枚で縁が切れる共同体など、しょせんその程度          のつながりでしかありません」という文章に背中を押してもらった。

説得するまでに長い時間が必要だったけど、転校できることになった。

入学後編

「お金を沢山稼ぎたい」
最初はそんな気持ちだったと思う。

起業=自由にお金を稼いでいるイメージがあったからだ。
けれど、学校に入学してから実際に色んな起業家に触れたり、学校の授業を受けていく中で、
経営者こそ表には見えない泥臭い地道な努力があるということを知った。
そして社会にどんな価値を作っているのか。
どんな想いがあって、どうしてその仕事・会社を創ったのか。
そういう哲学を沢山持っていた。その姿がカッコよかった。
哲学を持った起業家と関わっていくうちに
お金をより多く、より速く稼いで生きたいという気持ちはなくなり、
なんのために仕事をするのか。自分の幸せや豊かさを考えたいという気持ちが生まれた。


初チャレンジ編

入学後に初めて挑戦したことは、イベント主催。

「不登校の時に受けた困難を減らしたい」
そういう想いから、通信制高校で活発に行動している高校生が
不登校の中高生向けにプレゼンをするというイベントを開催。

僕が転校する時、通信制高校の情報が少なく在校生の生の声を聞く機会もなかったため不安だった。
そういった不安を少しでも軽減したいという想いのもと
その時、インドに住んでいたゼロ高のゲンセイさん、高校生向けのコミュニティを運営されていたアヤさん、
日光から肌を守れる服を作り起業したクラタさん、
Twitterで声をかけただけで快く協力してくださった先輩方の力を借りてイベントを無事に開催できた。

今まで価値を貰う経験しかしたことがない僕にとって、
価値を生み出し、「与える」という体験は凄く大きかった。

このイベントが終わった後、
不登校のお子さんを持つ保護者の方々から「自分の子供が通信に入って大丈夫かなと不安だったけど、このイベントを通じて通信に入った後の姿にワクワク感を抱けるようになりました」「子供を否定せず、ありのままを受け止めて見守っていこうと思いました」など、
有難い感想を貰い、価値を与える時の喜びを染みるくらい感じた。

人と人を繋げることで、今まで隠れていた気持ちが浮かび上がり新たな感情やアイデアが浮かび上がる。
そういう部分に可能性を感じ「人と人を繋げ、新たな価値を生み出す活動がしたい」と思うようになります。

デザインとの出会い

僕は人にビジョンを話したことがきっかけでデザインに興味を持つようになった。

起業家育成高等学院の校長、福永祐作さんに「掲げたビジョンは人に話した方が明確になるよ」と教わり、
初対面の社会人や大学生にビジョンを伝えていた時に、
やりたいことを実現する手段としてコミュニティデザイナーを教えてもらったこと。
それが僕とデザインの出会いだった。

∈コミュニティデザインとは、コミュニティの力が衰退しつつある社会や地域のなかで、
 人と人のつながり方やその仕組みをデザインすること。

赤い色を意識すると赤色のものが目に入ってくるように、
デザインという言葉を意識すると町中のデザインが目に入ってくるように
なり
今まで自分が何も考えずに使っていた物、ありとあらゆる物や場所にデザインが関わっていることに気づき始める。

それから僕はコミュニティデザインに興味を持ち、様々な本を読み、調べていたが、
デザインという言葉自体にも可能性を感じていた。
〇〇デザイナー・デザインという言葉は本当に沢山存在している。
けれど、全てのデザインの本質は同じなんじゃないかと思い、グラフィックや空間デザインにも興味を持ち始め、
それらを経験できそうな場所へ足を運んできました。
「イベントを開催したい」と聞けば、ポスターを作らせてくれないかと頼みに行ったり、
古民家改装企画があれば、空間デザインを学ぶチャンスだと思い参加してみたり、
デザイン企業の社長にアポを取って、デザイン企業でインターンをしてみたり、
いろんな場所でいろんなデザインに触れていく中で、デザイナーになりたいという気持ちは段々と膨らんでいった。

自分ベクトルからシステムや構造自体へ

高校3年間の中で常にやりたいことを見直し、改良をし続けてきた。
大学受験をするか、しないか。その判断を下すために大きくビジョンを見直した時期があった。
その話をこの章ではしていきたい。

問題の根本が他にあるような気がしてきた。
当時僕は不登校になった子が孤立しないようにするため、人と人との繋がりが大切であると考え、イベントを開催したり、コミュニティを作ろうと動いていた。
そして人と人との繋がりを生み出すデザインに興味を持っていた。
けれど、何度かイベントを開催していく中で、人と人との繋がりを生み出す以外の解決策はないのだろうか。不登校が不登校として扱われない方法を考えていなかったなと感じるようになる。
そうして僕は、原体験をもう1度振り返り、整理し、
自分が経験した困難の原因はどこにあるのかを探るようになっていった。

本も沢山読んでいた。
自分の経験則だけでは、どうしても間違った判断を下しやすい。
歴史と自分の経験をすり合わせていかないと過去の過ちを繰り返してしまうと考えていた。

そんな時、出会ったのが高田さん。
高田さんは僕のビジョンを聞いて凄く共感してくれた。
そして、僕の思想に近い人物を紹介してくれた。
それが、イヴァン・イリイチという人物。
この人物が僕の感じていた違和感を、問題提起を、何十年も前に言語化してくれていた。

イリイチが語っていたのは「道具に依存し道具に支配されていないか」ということ。
「教育というものが学校教育だけになっていることで学びというものが他律的になってしまっている。
子供のための教育と言いつつも、結局大人のために子供の教育が成されていないだろうか。」
イヴァンイリイチの思想は深く説明するのが凄く難しい。捉え方も様々あるし。
ただ僕はこの思想に深く共感した。
「使っている道具を問い直すことなく、本来の目的を見失い、人の自律性が奪われていく社会」

∈ 「道具」とは、文字通りの道具に加え、
  制度やシステム、組織、科学技術、商品など、人と世界を媒介するもののこと。
  道具は意識して使わないと独自に進化していき、いつの間にか人を奴隷化してしまう。

不登校の孤立問題を解決するとしたら、
人との繋がりを作ることで解決できる。
けれど、原体験を振り返り、歴史を学んでいく中で、
そもそも不登校が不登校として扱われてしまう社会の構造や
学校教育自体に問題があるのではないか
と考えるようになっていった。

自分の経験則だけに向けていたベクトルを歴史や社会全体に向けるようになった。

愛が足りない。
だから僕はデザイナーを目指すことにした。

真に、人のための社会になっていない。そう感じるのは僕だけなのだろうか。
みんな幸福な社会を目指していたけど、真に豊かだと思える社会にはなれていない気がする。
物は豊かで頭も良い人が多い。
けれど、自殺や精神病の患者も多い。幸福度は本当に低い。
それが日本という国だ。
「本当の豊かさとは、幸せとは、何だろう?」

起業家育成高等学院に入学し、ビジョンを持った歳上の経営者と関わることで、
「お金を稼げば幸せなのか」「便利にすることは本当に個人の豊かさへと繋がるのか」という
根本的な問いが生まれ、考えるようになった。

僕が出した答えは、
お金でも、便利さでもなく、「存在価値を感じられること」=生きる意味を見出すことと近い

「なぜここにいるのか分からない。楽しくないのにやらされている。疎外感を感じる。」など
自分が無価値だと考えてしまう。そんな場所や状況に陥っていたら苦しい。
教育や仕事など、生活の大部分を占めるものに、
自分の存在価値を感じることができたら本当に豊かに生きれる社会が訪れるんじゃないか。

存在価値、これに必要不可欠なのが愛と自由だ。
愛がないと心が病んでいく。愛がないと、自分はいなくても良い存在だと思い込んでしまう。
自由意志も同じだ。自由意志がないと、自分の存在を否定してしまうようになる。

∈ちなみに僕は、「愛」を「関心を持つこと」と定義している。
愛の対義語は憎しみではなくて、無関心だ。

今、僕たちが生活している社会は多くの人が消費だけで生きている。
言い方を変えれば、消費しないと生きていけない。
僕は何でもかんでもお金に変わっていくことが少し怖い。危機感を感じている。
消費は他者を必要としないからだ。
消費は自分1人だけで完結する。

だから、消費が増えれば他者への関心(愛)が薄れていってしまうのは必然的なことなんだ。
つまり、僕らが今生きている社会は
愛よりも、やる意味よりも、数字を優先してしまう。
田舎の商店にいるおばあちゃんが都会にいないのは、均一化やマニュアル化を好む都市の特徴だと思ってる。
過度に効率化してしまったせいで、
最初の想いや目的を忘れ、目的を達成するための道具(手段)が目的に変質してしまっている。

どんな企業も学校も、最初は『誰かを幸せにするため』に生まれたはず。
しかし、その想いや最初の目的は、意識しないと気づかないうちに忘れてしまう。

人は道具を使っていると、だんだん道具に依存し、
楽しいと思う気持ち、夢中になれること、やる意味、よりも数字を優先する様になってくる。
それを取り戻す仕事がしたい。
僕にとって、それはデザイナーという仕事だった。

なぜデザインに最初の想いを取り戻す力があるのか。

デザインは、いつも人を中心に据える。
だから、誰かの生活を真に豊かにする可能性を秘めている。

日本人はデザイナーと聞くとファッションデザイナーをイメージする人が多いようだが、
それだけではない。
僕がイメージしているデザイナーは、
どう解けば良いかも分からない問題や、コンサルに相談がいく様な事業課題など、
抽象度の高い問題を解決する「道具のお医者さんみたいな役割」だ。

デザインは数字ではなく、人を優先する。
例えば、
ペン一つをデザインするにしても『子どもが使うには太すぎるかな』『キャップが開けにくくないかな』と考える。
それは市場規模だけ見ていたら考えられない。

関わる人に対する「思いやり」や「やさしさ」という
「関心」こそが、デザインの本質なんだ。(KESHIKIの石川さんの定義)
色や形、技術や機能は、その目的を実現するための手段のひとつでしかない。

デザイナーが何かを設計する時、必ず「人」が存在し、
そして「人には何が必要なんだろう。何を設計すべきか。」を考える。

「常にヒトを中心に考え、目的を見出し、その目的を達成する計画を行い実現化する。」それがデザインだ。
(JDPの定義)

僕は、「人にとってちょうど良い道具」をデザインしていきたい。
生み出した目的はなんだったんだろう?と問いかける。

企業のため・数字のため『企業がどう売上を伸ばすか』ではなく、
人のために何が必要か。を第一に考えられる人に、デザイナーに、僕はなりたい。
人にとってちょうど良い道具を実現化できるデザイナーに僕はなりたい。

僕は自分がデザインした物事の先に「人のために」で溢れる世界をイメージしている。
企業や学校が数字よりも「関わる人の幸せ」を優先して行動している景色を。

大学受験編

社会に出て、自分の未熟さを知り、
次は太刀打ちできるように準備する期間と場所が大学だ。

いろんな場所でいろんなデザインに触れてきて、
目に見えるデザインも見えないデザインも、
両方、自分にはまだまだ足りていないと感じるようになった。
ましてや大きな夢を叶えるなら一般的なプロ以上の力がいる。
もっと多くのデザイナーに触れ、デザインに触れ、学ぶ期間が必要だと感じ、大学を志した。

目的がないまま勉強すること、目的ないまま進路を決めることが嫌いだった。
けれど、僕には目的ができた。やりたいことができた。
色んな進路の選択肢を検討し、大学に進学することを決めた。

武蔵野美術大学を選んだ理由は、
僕がやりたい教育・企業分野のデザインを研究している教授が同じ学科にいること。
ハード・ソフト、どちらのデザインも学べる環境。
「数字のため」が進行した東京での研究。(タクラムやロフトワークなど、インターンしたい企業もある)
主にこの三つの理由からムサビを志望した。

けれど、大学受験も甘い物ではなかった。
困難が沢山あったし、諦めそうになったことも何度かあった。

一次試験の時、書類提出の7日前に100回以上書き直して改善してきた文章が白紙に戻るという事件が起こってしまった。
半年以上かけて、塾にも通って、志望理由や学修計画を記載した文章を作成していたのだが、
提出予定日の7日前に作るべき書類が間違っていることに気付き、絶望した。
完全に確認ミスだ。

基礎から作り直すことになったわけだが、
祐作さんやユリアさん、ヨシさん、フミヤさんに何時間も付き添いで協力してもらい
5日間で最高の文章を作ることができた。
文章ができるまでの5日間は何度か受験を辞めようか考えていた時もあった。
けれど、愛深い先輩方のおかげで何とか自分を奮い立たせ、継続することができた。

そして一次試験を無事に通過することができた。

二次試験の面接の対策もいろんな人に手伝ってもらった。
試験内容は、
構想力テストと言うコンサルの面接に出てくるような抽象度の高い問題を解くケーススタディ的な試験と
面接だった。

一緒にイベントを開催することで知り合い、サッカーや山登りなど、ずっと一緒に遊んでくれた
ヨシさん、フミヤさんが時間を割いて面接の対策をしてくれた。
朝7時から22時くらいまで仕事されている超忙しい方達なのに、休日を潰してまで時間を作ってくれたり、
仕事の合間を縫って休憩時間に僕の面接対策をしてくれていた。本当に感謝しています。
一次試験の過ちを反省し、ずっと試験内容を分析していたので、構想力テストの対策は準備満タンだった。

当日本番。
物凄い緊張の中、テストと面接を受けた。
正直手応えは微妙だった。特に面接では確実に落ちたと思った。
東京駅を帰りに観に行った時、
次はここに社会人として来るのかと思い悲しい表情で写真を撮った。

深刻な面持ちで大阪に帰ったが、結果は合格だった。

完全に落ちると思っていたため、
合格を見た時は
人生で初めて感じる気持ちが湧き上がり泣いて喜んだ。(安心感に近い)
大阪に帰ってから、ずっと進路に迷い途方に暮れ悩んでいたから嬉しくて仕方がなかった。

僕が受験を通して1番学んだことは、
自分1人さえ諦めなければ、誰かが助けてくれたり、何とか危機を乗り越えることができるということ。
あの時自分が1度でも諦め、考えることを辞めていたら、再起が難しくなり受験を辞めていたと思う。
全ての救いも受けられないまま終わっていただろう。
諦めなかった自分に感謝だ。

いろんな人の力を借りて掴み取ったこの4年間を
デザインに使うのはもちろんのこと、人にとってちょうど良い道具をどうすれば作れるのか。
答えのない問いに向き合う時間としても使いたいと思っている。

今は大学に凄く期待している。
と言いたいところだが、高校入学前に期待しすぎて失敗した経験があるため期待値をかなり下げている。
期待値を上げると下がった時の反動が大きい。

結局、自分を変えれるのは自分しかいないと思うから、
大学に入ってからも、自分が恐れていること。自分の弱い部分に
失敗を恐れず1年から挑戦していきたい。

環境に適応することも大事だけど、環境を自ら作っていこうと思う。


在校生と未来の在校生へ

僕から伝えておくべきことはあまりないけど、
2つだけ大切にしていてくれたら嬉しいなと思うことを書いておきます。

「自分から先に与えること」
「目に見えないもの」

この2つは大切にして欲しいなと思っています。

まず最初に「与えること」について話していきます。

「与える」というのは
サービスを作って届ける。
起業して人に価値を与える。
そういうデカいことだけでは、ありません。

自らが先に関心を持つこと、先に質問すること、
それも立派な「与えること」です。

年齢が若いと大抵相手から関心を持ってもらえる。
「〇〇くんは何をしたいの?」と質問してくれる。

けれど、そういう状況に甘えず、
自分から相手に関心を持ち、質問して会話を続けてみてください。
多分、学びがあると思います。

続いて、「目に見えないもの」を大切にすることについて

自分が信じると決めた
目に見えない大切なものを信じ続けて欲しい。

木の根っこや空気、電波、
多くの場合、大切なものは目に見えない。

ここで僕の好きな詩を紹介させてもらいます。笑
「星とたんぽぽ」金子みすず
散ってすがれたたんぽぽの
かわらのすきにだぁまって
春のくるまでかくれてる
つよいその根はめにみえぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ

多くの場合、媒介物を通じて人は目に見えないものを信じている。
例えば、
電波は携帯があるから存在していることを信じられる。
たんぽぽの根も同じ。抜いてみたら存在を確認できる。

でも、きっと在るんだけれども
媒介物がないから信じてもらえないものだってあるはず。

お金や車など、
人は目に見えるものを信じて、大切にすることはできる。
けれど、目に見えるものは一時的で終わってしまう。
いずれ朽ちていく。喜びも一時的
なもので長続きはしない。

目に見えないものは長く続く。
けれど忘れていってしまう。気付かない人だっている。

僕たちが思い描くビジョンだって意識しなければ見失ってしまう。

目に見えないものは、各人によって意見が異なる。
目に見えないものこそ、人に共有することが難しい。
近年、
インターネットが普及し、
フィルターバブルと呼ばれるように偏った情報の見方をしてしまう人が増えてきている。
人によって意見がバラバラなのが現代だ。

人は皆、何かを信じて生きている。
お金はみんながお金であると信じているからお金になれる。
この世界は全て意味を付けることで成り立っている。

自分の信じるものを見つけて欲しい。
自分だけが信じているものでも良い。

そして、それを大切にして欲しい。
他の人の意見や反対の意見も勿論、聞きながら。
信じるか信じないかを自分で決断しないといけないものは決まっていつも、目に見えない。
目に見えないから証明することもできない。
意見が食い違った時、本当に信じているのであれば誰に何を言われようと折れてはいけない。

自分が信じると決めた、目に見えない大切なものを信じ続けて欲しい。

普段から背景を想像してみよう。
怒鳴っている人が、なぜ怒鳴っているのか。その背景を。
嫌だなと思う人の奥に存在している家族の姿、家庭の状況を。
想像することが上手くなると優しくなれる。

普段から一つ一つ丁寧に定義していこう。
自分にとって信頼とは何か。責任とは何か。豊かさとは何か。
言葉の定義や歴史に対する意見、未来に対する意見。
それがいつか、核となり、自分を作っていくんだと思う。

何となく伝わっていたら嬉しいです。

高校生活、頑張ってください!
楽しむことを忘れずに。

最後に

凄く長い文章を読んでくださり本当にありがとうございます。

今回は「デザインを志すまで」というテーマで書いたので、テーマに合わないものは割愛しました。
ここで書いた挑戦以外にも
自然のファンになった自転車200㎞旅、雑誌作り(失敗)、ビジコン、イベント開催など
多くのことを経験してきました。

思い返すと、入学当初の僕はめっちゃ尖っていました。
そんな僕をずっと支えてくれて、関心を持ってくれてありがとうございました。
入学時は、生きる意味も、自分の存在価値も分からない自分でしたが、
今は未来に希望を抱き、生きていることが楽しいです。
今の僕はかなり豊かだと思います。
決してここまで1人で来れたわけじゃなくて、多くの人にお世話になってきました。

高校生活3年間
いろいろと困難なことも多くありましたが本当に楽しかった!

皆さん本当にありがとうございました。

この先のストーリーが面白くなるように僕はこれからも走って行きます。

デザインで「人のため」が溢れる豊かな世界に

遠藤佑亮


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