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Guitar1027

今回の「その日の歌」はCoccoの「十三夜」。暗くなってすぐに見上げた時には雲に隠れてしまっていて「あらあら、、」と思ったんだけど、その後はしっかり見えた十三夜の月。きれいだった。

今回はひたすらにリズムと向き合う感じだった。サビ前からの変速&速いベースと歌を合わせることがかなりきつくて(それぞれ単独なら問題ないけど)、意識を吸われまくっている。最初はテンポをかなり落としてベースの中に歌詞を落とし込む位置の定着をはかるところから何度も何度も練習し、少しずつテンポを上げていって、やや慣れてきたかなという段階がこれ。まだまだ時間が足りなかった。指ももたついているし歌には意識が回らず不安定&のっぺらぼう。でも今できるのはここまでだから、それを遺す。

この曲にも「消えてくれおまえらみんな」「死んじまえ」と、Coccoの外にも向く攻撃的な気持ちが出ている。
私はこれは外向きだけど自傷的なものだと見ている。「消えてくれ」の背後には「消えたい」があり、「死んじまえ」の背後には「死にたい」がある。そして「死んじまえ」の後に並べて述べられる「信じまい」、この背後にも「(本当は)信じたい」がある。
Coccoがアルバム「エメラルド」を制作していたのは苦悩の時だった。自身と「沖縄」に向き合い、その絶望の淵で辛うじて細く崩れそうな足場を歩いていたのだろう。しかしそんな内的事象と外界は関係ない。現実は理想とは程遠く、理不尽が変わる見込みも無い。気持ちはぐらぐら振り子のように揺れ動く。生きる、死ぬ、殺す、死ぬ、信じる、信じない、信じたい、信じられない、、
多分ここでダレンや私は「殺す」を人に向けること、ましてやそれを自分の外に表明することはまず無い。それは「受け止められた」体験の欠如からなのだと思う。

Coccoはご両親が離婚しているし、確か父方のお祖父様が琉球芸能の重要文化財だから、「そういう家」の出であるとは言えるんだけど、Coccoチャンネルのエピソードや昔の写真なんかを見ていると島(石垣島だったかな)出身のお母様はかなりの不思議ちゃんでありかつ南方的な深い愛を彼女に注いでいたことがわかる。だから彼女は「受け止められていた」し、土台、基盤がしっかりしている。
南方系の愛情?は私には未知の世界過ぎる。身近にいた台湾にルーツがある子、あとは(ご両親は台湾ご出身だけどご本人は日本育ちで日本語で小説を書いている)作家の温又柔さんなんかも、とても大らかに、深く、真っ直ぐに愛情を向けられて育ったんだなという感じで、自己肯定が盤石。とても明るく大らかで、自分にも人にも優しく、見ていて気持ちが良い。

一方、ダレンや私はそこが無い。
ダレンにはある程度も愛着や期待はあるようだけど、基本的には「受け入れられた」経験、感覚が欠乏している。さらに危害を加えてくる避けられない人間への恐怖に長期間苛まれた。助けや理解を、どんなに求めても、ただ虚しい結果になるだけだった。そこで学び獲得したことが基本的に「外へのアプローチは無駄、だから自分が引く」なのだと思う。
それでもダレンは「世界を諦めきれない」状態で踠いていた。どこかに希望の灯火が残っていたのだろう。だから"Two beds and a coffee machine"など母親をモデルにしたと思われる曲も書いた。そして「人ではない」ロマンスを「撃ち殺す」と歌っていた("Gunning down romance")。「人」には向かなくとも、「外」へ気持ちが出ていったのだ(一方、人の大人に対しては懐疑的な視線の"The animal song"を同時期に書いている。人間は基本的に味方ではなく期待するに及ばない対象であるから銃を向けるだけ無駄という論理になるかな)。
私は「人」も「世界」も諦めた。灯は完全に落ちた。だから「外」へは気持ちが向かない。明かりは灯らない。全ては無駄。だから自分で片をつける。何も信じない。私に「ぶっ殺す」が出ないのは、そう思うことで対象と関わることすら汚らわしく煩わしいから。とにかくそういう見込みもなく汚らわしく煩わしい魑魅魍魎とは一切関わりたくないという思いがひたすらに強い。

「十三夜」には曲の後半で"Lift me up"(私を持ち上げて)が繰り返されている部分がある(これは自分で自分に言い聞かせている部分もあるものだとは思う)んだけど、これを直接外に出せるのもダレンや私とは違うと感じる。
私は出ない出さないし、ダレンはきっと、言うにしてもストレートには出さない。"Two the moon & back"とか"Universe"みたいに"She"として出現させるキャラクターに載せる形にしたり、"You"にしたり、あるいは逆説的な物言いで「気付く人しか気付かない」形で出したりする気がする。

何だかよくわからないままに開け続けているタイムカプセル達。色んなものを見せて考えさせてくれるね。


クッキーも焼いたんだけど撮り忘れた。こういう半ば習慣化していることが落ちる時って要注意なんだよな、、
目ではしっかり見えるのに写真にすると全く別物。
そのままの形には残せないけど、だからこそその場で出会えたものことの貴重さというのはあるよね。ライブもそうだけど。

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