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vol16 人間の考え方は「時代」と「視座」で作られる

人間は自分が信じるものには「それ以外ない」と感じてしまう。たとえば「平和は絶対維持するべき。戦争なんて言語道断」と考える日本人も少なくない。ただ、世界は戦争している。何らか理由から、戦争を完全悪と判断していないからだろう。

このように、同じ人間でも考え方は大きく変わる。僕は思う、結局人間の考え方・精神は生まれた時代と本人が世界を捉える尺度でしか見れないのだと。その結果「今」に対して自分が思う最適を考える以外できない。未来を考えても、過去を考えても、それは「今」から作り上げた精神が未来や過去を見ているに過ぎないから。

たとえば僕は「生きる」とは「楽しく幸せに過ごすことを追求する」以外にないと考えている。細かい理由はない。あえて言うなら、生きることは僕にとって当たり前の存在で、その人生をいかに楽しく生きるか?を考える余裕があるからこそ、こんな事を考えるのだろう。

ただ、これは生まれる時代が異なれば考え変わる。たとえばリヴァイアサンを書いた哲学者ホッブズは生きることを「自己保存」と捉えている。まあざっくり言うと、「とにかく生きろ」ってこと。
なぜなら、ホッブズが生きていた時代のヨーロッパは宗教戦争や内乱が絶えない時代だったから。だからこそ「生きる」こと自体が当たり前ではなく、重要だった。

ありえない話だが、もしホッブズが現代に生まれていれば「自己保存」という信念も違っていたかもしれない。逆に僕がホッブズの時代に生まれていれば「楽しく幸せに過ごすことを追求する」なんて考えず、いかに生き延びるか?を考えていたと思う。

それくらい、人間の精神・思想には生まれた時代の影響がある。ただ、生まれた時代は変えられずとも、その世界を眺める視座は変えられる。視座とは世界を広い視野で捉えるか、細部に注目するかといった、抽象度と具体度の違いを指す。つまり、世界をどれくらいの広さで捉えるか?ということ。
たとえばホッブズは「生きる」ことに対する視座は「社会」の中で生きるという抽象度で考えている。ここで言う社会の定義は広いだろう。家族でもなく、学校でもなく、人類が作り出す集団の中で最大規模の存在、それが社会と言える。

ただ、ホッブズと同じ時代に生まれた人間同じように世界を眺めていたかというと、おそらく違う。中には「生きる」という枠組みを「家族」という尺度で見ていた人間もいるはず。すると、おそらく僕と同じように「いかに楽しく、幸せに過ごすか」を重要視していた人間もいたかもしれない。

だからこそ、人間の考え方(精神・思想)は大きく2つの変数で作られる。時代背景と視座、この2つ。自分はどんな時代に生きて、どんな視座で世界を眺めているか。それさえ分かれば、自ずと生き方は定まる。

ただの余談だが、この感覚は数千年前にプラトンが気付いちゃってる。すげぇーってなるよ。プラトンの言ってることをざっくりまとめると

これまでの哲学者は世界自身の中に世界を秩序付ける原理があると考えて探求してきた。しかし、水やら空気やら一つの共通見解にはいたらなかった。その理由は人間が世界の根本原理をうまく認識できないからではなく、むしろ様々な人間が自分なりの観点で世界を秩序づけてきたからに違いない。つまり「秩序づける」ことは世界それ自体の働きではなくて、原理的に「ヌース」(人間側の精神)の働きである。

引用元、忘れちゃいました・・

まあぎゅっとすると、世界の本質は人間の外にはない。(あろうとなかろうと感知できない)人間の内側にこそ、世界の本質(何が正しいのか、何が美しいのかなど)を決定づける根拠があるって考えたのよ。

そしてその根拠となる精神は一言で言うと生まれてから経験することで変化し、特に時代背景と視座によって、同じ事象を経験をしても、受け取る情報は変化すると僕は考えている。だからこそ、何かの本質を考えるうえでは、人間の精神を見つめるしか手立てはないし、自己対話というか、内省は欠かせないように思う。

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