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Doではなく、Beを。

早朝出勤3日目。
雨が降りそうで降らない、ここでは珍しく湿気で息苦しい朝。

お盆も終わり、だいぶ平日モード。
久しぶりの常連さんたちの顔を見て、ちょっとほっとします。

8月17日。
はちがつじゅうななにち…。

朝からなんだか心にひっかかる数字。
なんだろう。
……………………。


あ。

予定日。
そう、11年前の長男の出産予定日だ。

結局なかなか生まれる気配なく、1週間近く遅れたので、誕生日はまだ先なのだけど。


時々ありませんか?
この数字の並び、何かの日だった気がする…ということ。
もう今は連絡をとっていない誰かの誕生日だったり、過去の何か重要なイベントのあった日だったり。
思い出して、ちょっと懐かしくなったり切なくなったりする。


話は戻って、誕生日といえば。

よく考えてみると(よく考えてみなくても…)、生まれるまさにその日、本当に誕生した日のことを知っているのって、自分の子どもや自分より小さい家族や親戚くらいだよなぁ。

赤ちゃんって、存在そのものが命そのものでしかない、というか。
余計なものはまだ何もくっついていなくて、命をかたちにしたものが目の前にぽんってある感じがします。


少しずつ少しずつ、あれができるようになって、こんなことが心配になって、というふうに命のまわりにいろんなものがくっついて大きくなっていくイメージ。


もう小学生高学年にもなると、今のままでいいのかな、勉強は、運動は、友だち関係は、将来は…と不安はたくさん。

お母さんは誰しも、赤ちゃんの頃から、他の子と比べたらいけないよ、と言われてきていると思います。
でも、やっぱりいつまでたっても他の子と比べてしまうことはある。


最近も、長男の元サッカー仲間が、他のチームでがんばっている姿を見たり、学校で朝から練習していたりするのを見ると、心がざわついた。
いつもなんとなく、外ではシャイで無口なところも心配。

それでも、家ではいつも弟とふざけて笑ってばかりで、でも真面目でやさしくて、ああ、それでじゅうぶん、と思う。


動詞(Do)=何をするか
ではなく、
Be動詞=存在する
そのこと自体に目を向け、認めることが大事、と言われるけど。

大人になるにつれ、自分自身の価値をDoではかる
ようになり、Beそのものの大切さだけでは認められなくなってしまうものだから。


せめて、この世に存在する瞬間を見た親だけでも、子どものBeそのものを奇跡だと思って認めてあげたい。

ああ、なんか尊そうなことを書いてしまいましたが、頭ではわかっていても、なかなか日々の生活の中では、忘れてしまうんですよね。
せめて、誕生日を思うこのときだけでも、本人に対して素直に言葉にしようと思います。

なにができるからよい、なにをしたからよい、
というようなこととなんの関係もなく、
「ただいること」がよいとされることを、
ほんとうは誰もが望んでいる。
「be」動詞の、「be」の状態で肯定されること。
誰よりもじぶん自身からよしとされること。

ながしまひろみ『やさしく、つよく、おもしろく。』より




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