個人的すぎるコーヒーの味。
7日目。
早朝、散歩に出ていたらしい大好きな人から写真が届く。
刈り取られた田んぼと、朝焼けの空。
私が起きたときに見えたのは、まだ夏の色のままの青空と、強い風に無防備にぐるんぐるん振り回される稲の波でした。
昨日の夜も、小さく音楽をかけながら、雪の結晶をひとつ刺繍しました。
やはりいびつな六花。
そのせいで少し寝坊しました。
フレンチトーストにしようと思ってたけどやっぱりやめようかな、と言ったら、子どもたちがたべたいたべたいと言い、長男が手伝うと言うので、超熟1斤分つくりました。
そして、いつもより丁寧にコーヒーをドリップする。
一昨日に我が家のコーヒーはすっかり底をついたのだけれど、なんと昨日の夕方、気付いたときにはラインにこんなメッセージが。
慌てて外に出ると、紙袋の中に2種類のコーヒー豆と、栗のケーキが入っていました。
感激のあまり、ひとりワーワーギャーギャー、うれしい、死ぬほどうれしい、と騒ぐ私に、何が起こったんだと子どもたちがのぞき込む。
そのコーヒーのひとつを、大事に大事に味わう。
「ブラックトリュフの風味だって、わかる?」
「わからん。」
「私もわからん。」
「それ食べたことある。チョコレートに入ってた。」
「そんなわけない。見た目がトリュフみたいなだけ。」
そもそも、私にコーヒーそのものの純粋な味なんてわからない、と思う。
誤解を招かないように言うと、それなりに味わえるし、もちろん説明もできます。
でも。
ずっと定番としてあるコーヒーや、毎年登場する季節のブレンドコーヒーは、だんだん、だんだんと、個人的なものとなっていく。
5年日記、いや10年日記のように、あらゆる思いが書き込まれていくのです。
働き始めのころ、尊敬する先輩がこんな感想を言っていた。
春を待って、あの店の仲間と港まで持っていって飲んだ。(青春だ)
どうやってたくさんの人に買ってもらうか考えすぎて、夢の中で発注を失敗した。
あの人が、好きだと言った。(甘い苦い)
それらも全部ひっくるめて、コーヒーの味になってしまうから、よくないのです。
私たちは、コーヒーを売るときにはストーリーを語れ、と言われるけど、私はなるべくいつも慎重に冷静に、説明するようにしている。
でも、この人はわかってくれる…と思ってしまったとき、少し私だけの美味しさを追加してしまいます。もちろん個人的すぎないもの。
今日飲んだコーヒーには、すでに10年分くらいの個人的な複雑な味わいがあるのだけど、そこにまた、届けてくれた同僚のやさしさと、出勤できず家の中だけで味わったこの今日の朝のことが加わりました。
同じものを長く扱うことのよさって、ここだと思うのです。
店で話すとちょっと暑くるしい感じになってしまいそうで、ずっと自分の中だけに留めています。
聞いていただいてありがとうございます。
美味しいコーヒーが飲めますように。
やっぱりもうだめだ、早くいつもの生活に戻りたい!
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