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存在を問い続けて

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「岡山の部落史」をテーマに、「渋染一揆」や「明六一揆」(解放令反対一揆)を中心に、江戸時代から近代までの論考や史資料を紹介していきたい。
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#日本の歴史

「明六一揆」論(1):慰霊碑

「美作騒擾」とも「美作血税一揆」とも呼ばれる岡山県北部で起こった「解放令反対一揆」を考察…

藤田孝志
2年前

岡山藩の「穢多頭」役

岡山部落問題研究所機関誌『調査と研究』に連載された人見彰彦氏「部落史のひとこま」に紹介さ…

藤田孝志
2年前

岡山藩の「目明し」役(1)

岡山藩で穢多身分の者に「目明し」役を命じるようになった経緯を,人見彰彦氏の「部落史のひと…

藤田孝志
2年前

「柿渋染め」覚書ノート

中国では,4~5世紀頃から存在したと推測されている。 韓国では,1382年『済州島略史』によれ…

藤田孝志
2年前
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「渋染一揆」関連史

●1702(元禄15)年「御役目拒否(返上)」「穢多頭」の多左衛門が「(処刑した罪人の)死骸を取り片…

藤田孝志
2年前

「渋染一揆」原典史料:解題

『岡山部落解放研究所紀要』(1988 第6号)「渋染一揆関係史料集」には,原史料(原文書)を…

藤田孝志
2年前
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「渋染一揆」再考(9):動機

『岡山地方史研究』(117号)に,ひろたまさき氏の『差別からみる日本の歴史』に関する井久保伊登子さんの書評が掲載されていた。その中に,渋染一揆について述べた次の一文がある。 著者(ひろたまさき 引用者)は,一揆の動機が部落民の平等思想の覚醒にあったとする従来の学説に反論して,彼らはキヨメ役としての存在を否定されたために立ち上がった,と主張する。その理由として嘆願書の,一命が危うい仕事も出仕し忠勤を尽くして任に当たっている自分たちの穢多役割を強調している一文を引用する。 しか

「渋染一揆」再考(8):他藩の渋染強制

「渋染一揆」の77年前,1778年(安永7)に岡藩(大分県)で被差別民に対して出された触…

藤田孝志
2年前

「渋染一揆」再考(7):染色

「渋染一揆」に関して,従前の「渋染」の衣服が存在しない(庶民の通常の衣類ではなかった)と…

藤田孝志
2年前
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「渋染一揆」再考(6):古着と新調

『屑者重宝記』所収の「別段御触書」に,次の一文がある。 新ニ調候義ハ無紋渋染藍染之外ハ決…

藤田孝志
2年前

「渋染一揆」再考(5):「倹約令」の目的

天保13年(1842)の『御触書写』(清水村)より,穢多身分に出された触書を転載する。 …

藤田孝志
2年前

「渋染一揆」再考(4):家紋

『池田家履歴略記続集・後編』に「穢多結党」と題する「渋染一揆」に関する記述がある。『池田…

藤田孝志
2年前

「渋染一揆」再考(1):衣服統制

なぜ「無紋渋染藍染」に抗したのか 「渋染一揆」の最大の疑問は,なぜ岡山藩は穢多身分に対…

藤田孝志
2年前

岡山藩の非人(3):両山乞食之内追払一件

以下の史料は,享保16(1731)年,岡山藩の城下校外にいた両山乞食が,城下常盤町にいた隠亡頭の次郎九郎の手下であることを拒否したため追払処分となった経緯を町奉行がまとめたものである。

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