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「渋染一揆」再考(4):家紋

『池田家履歴略記続集・後編』に「穢多結党」と題する「渋染一揆」に関する記述がある。『池田家履歴略記』とは,岡山藩主池田家の通史であり,歴代の重要事件を編年体で物語風に記述したものである。

「穢多結党」の冒頭に,穢多たちに対して別段条項を出した理由が書かれている。

旧来穢多共銘々定紋の服は停止なりしかとも近来法度ゆるみてひそかに新調せしかは此度の改革にて復古すへきとて命を出せし也。
(旧来,穢多たちは,それぞれの家紋の付いた着物は禁止されていたけれども,近年,法度がゆるんで,こっそりと新調しているので,この度の改革で元のとおりにすべきだと倹約令を出したのである。)

また,『穢多共徒党一件留帳』には,次のような興味深い記述がある。この『穢多共徒党一件留帳』は,下原村の名主高原国平が書いて,和気郡藤野村の大庄屋万波七郎右衛門に提出した報告書の草稿である。大庄屋万波七郎右衛門の組下であった藤野・稲坪・森の三ヵ村の被差別部落民が「渋染一揆」に参加した動向を記したものである。

尤,外部穢多共も大意同様歎書出シ候由。篤と相考候処,願面甚潤餝ニて御下知相拒候文意ニ当り,是ニては御趣意ニ障り,御聞上も有之間敷,郡中大庄屋中内談之上,指当り迷惑之廉,藍染・渋染両条御歎申上遣候ハヽ,何も指支も有之間敷,其段組合三ケ村ニも及理解候処,定紋御免之儀歎出。併,是ハ指支之訳ニ無之段,及理解候得共,聢と承服不致に付,則,内々歎書左之通相認。郡中同役へも移合候処,外組々ハ承服致候様子ニ相聞候得とも藤野村穢多とも兎角定紋之処御歎ニ外れ候ては,外部穢多共御免相成候節当郡定紋丈洩れ候様相成候ては迷惑仕候段,先御見合可被下と村役人之申出全承服不仕ニ付,正面指出不申候得とも,御両頭様へも御内見ニ入れ候ニ付,左ニ留置申候。
(もっとも,他の村の穢多たちも,大意は同じような歎願書を差し出したとのことである。よく考えてみたところ,願いの書面が甚だしく屁理屈をこね命令を拒否する内容になっているので,これでは,お上の趣意に障って,聞き上げられることはない。そこで郡中の大庄屋たちが内々に相談し,「差し当たり迷惑する藍染・渋染に関する両条について歎願を申し上げてやるから,何も差し支えることはなかろう」と,そのことを組合の三カ村に説得した。ところが,「定紋付についても許可してもらいたい」と,歎き出てきた。しかし,これは差し支えることはないと説得をしたけれども,はっきりと承服しないので,則ち,内々に歎願書を左のとおり書いた。郡中の同役の者にも連絡したところ,外の組々は承服した様子に聞いたけれども,藤野村の穢多たちは,ともかく定紋のところが,歎願から外れたのでは,外の郡の穢多たちにお許しがあった際,当郡の定紋だけが洩れるようなことになる。それでは,迷惑すると言って,先ず,見合わせてくれと村役人に申し出て,全く承服しないので,正式の書面は差し出さなかったけれども,御両頭様(郡奉行・代官)へも内見しておいたので,左に記しておく。)

この2つの史料から,「無紋」と「渋染藍染」は別々の問題として考える必要があるように思う。「渋染藍染」が許されても「定紋」が許されなければ困ると歎願していることからも,彼らにとって「家紋」「定紋」は重要な問題であったことがわかる。

他の史料(口書)に「渋染藍染」の「染色」を問題にして歎願したとの記述もあった。「家紋」「定紋」と合わせて,「無紋渋染藍染」の意味と歎願の理由について考えてみたいと思っている。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。