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家族の秘密

僕の母は16歳のときに亡くなった。その時から僕は何かが変わったんだ。

それは何かはわからない。
でもあるものをなくして、それは帰ってくることはなかった。

母は素晴らしい人だった。敬虔なカソリック信者で、町の人からも信頼をえていた。どこに行っても人のために生きてる人だった。この町で生まれ育った母は街の人をみんな知っていた。その頃のこの街の人口は1万人ちょっとだったから。そして町の人を愛していた。

母は中学校の教師を病に倒れるまでしていた。街のほとんどの人を知っている母は、街を歩くと元生徒から生徒の両親まで全ての人に挨拶されていた。その姿を見ても尊敬できる教師だったんだろうと察することはできた。

母はとても頭の良い人で、何より人のことがわかった、僕が少し落ち込んでいても必ず手を取って目を見ながら「どうしたの?何かあったの?」と聞くことのできる人だった。とっても察しが良く、母には嘘をつけなかった。とてもスマートな女性だった。聡明という言葉がぴったりの人だった。

父と母の関係も良かった。父は母のことを尊重していたし、あの頃の男性にしてはだけど、母は父のことを愛してた。それはよくわかった。よくある町のおしどり夫婦だった。二人で日曜日にはミサに行き、町中の行事にはきちんと参加していた。誰かが困っていると必ず助けていた。多くの人が僕の家に相談に来ていた。そんな時母はエスプレッソをいれてから、父も母もきちんと話を聞いて、母は女性ならではの意見を言い、父は「何かあったらまたいつでも頼ってくれ」と話をしめていた。僕はそんな両親の元に育ったことは誇り高かった。

田舎町の普通の高校生だった僕は、母の勧め通りの高校へ行った。ラテン語やギリシャ語を学ぶのは実は楽しかった。多くの同級生達が悪態をつくなか、僕はその公式にハマっていった。多分それは母の影響だったと思う。常に母がラテン語くらい面白いものはないと言っていたから。同じレベルになれることが嬉しかったのかもしれない。勉強は嫌いじゃなかったし、人生について考える必要もなかった。幸せだったから。

高校時代は男友達とつるんでた。サッカーをしたり、漫画を読んだりよくある高校生の日常だった。同級生は彼女を作ったりしてたけど、僕はあんまり興味がなかった。あまったるい声の女の子にはなんとなくめんどくささを感じた。甘酸っぱい匂いのする彼女たちの笑い声は気持ちのいいものというよりはなんか気恥ずかしいものだった。もちろん女の子は好きだったけど、なんか違う世界に住んでいる住人って感じで、それならラテン語の翻訳をしていか音楽を聴いている方が落ち着いた。だから彼女はいなかった。必要もなかったからあの頃は。

確か高校に入ったすぐの頃だったと思う、母は隣町の大きな病院に検査に行った。父と一緒に帰ってきたときに、二人でベットルームで話し合っていた。その時いつもなら、どんな話も居間でするのにちょっと不思議にそして不安になった。それまでは秘密のない家族だった。どちらかといえばオープンで現代的な家族だ。学校であったことや仕事で起こったことは、常に家族で共有していた。嫌なこともいいことも。母は聞き役にまわり、そしていつも満足のいく返事をしてくれた。

父と母はその時こそこそと話をしていた。言い合いをするという感じではなく、何かを二人でかじっているような、そんな声がベットルームからしていた。
たまに父と母は言い争いをベットルームでしていた。でも今回のは違っていた。その時いつもみたいに喧嘩してくれればいいのにって、でも今回は違った、それは声のトーンでわかった。

ベットルームから二人が出てきた時、いつもと状況が違うのがわかった。母は僕のことを見ることはなかったし、父の鼻歌も聞こえてこなかった。母は何かに取り憑かれたかのように料理をして、父はいつも読まない新聞を読み始めた。僕は何もなかったかのようにテレビを見たんだ。不安だったけど、テレビに集中した。

姉が外から帰ってきて、夕飯を食べてたときに、父は話を始めた。
「話さなきゃいけないことがある。母さんは仕事を休まなきゃいけないんだ、病気の治療に専念しなきゃいけないから」と言った。
母はこういった
「大したことないのよ、心配しないで、でも先生は休んで治療に専念しろって言うの、あなたたちにも迷惑がかかるかもしれないけど、ごめんなさい」

母が僕に初めてついた嘘だった。
母が嘘をつく時にどういう表情をするのかを知った。

僕たちの家族には秘密ができた。

「何の病気?」
と僕が聞くと
母は
「頭よ」と答えた。
脳の病気とは答えなかった、脳腫瘍とも答えなかった。

でもその時に姉も僕も理解したと思う。
なんかすごい黒い影が頭にあるんだなって。

そしてその影は僕たち家族すべてを覆ってしまうんだなって。

母の治療が始まった。
がんの治療というのは、近くで見た人なら知っていると思う。
生きている力を抜いていくかのように、治療するごとに悪くなっていくんだ。
がんの治療っていうのはそういうものなんだ。
手術をして放射線を受けて、母の髪はなくなり常に頭に何かを巻いているようになった。

あんなに生き生きとしていた目は生気を失い、肌はカサカサになった。
まるで御伽噺にあるような、一晩にしておばあさんになる魔法をかけられたかのように
母の姿形も、性格も全て変わっていってしまった。

前のようにキビキビと歩くこともなくなり、壁を這うかのように移動していた。
自分で移動ができていた時はだけど。

姉も僕も父もそんな母をなすすべもなく見るしかなかった。
無力な自分達を責めた。
そして母については誰も話さなかった。

母は大丈夫なのか?と何度も聞きたかったけど
見ればわかることだった。

安心させる言葉は今までは母が言ってくれてたけど
母が

「ごめんなさい心配かけて」
「大丈夫よ」
「明日は元気になるわ」

その言葉を言うほど僕らは厳しい気持ちになっていた。

「嘘をつかないで」と言えないほどの大人にはなっていた。

街のサロンだった居間はもう誰も来なくなっていた。
母が気持ちよくいられるように暖かくしたり、ブランケットを揃えていたけど母は大半の時間をベットに過ごすようになっていた。

学校から帰ってキッチンに母がいないと、
「あれ?母さんは?」ということさえなくなった

そんなことを気軽に言えるのは幸せな日々だったんだってことに気づいた。
僕らは失わないとたくさんのことを理解できないから。

母がベットにいることは当たり前になっていった。

その時にその苦しみの中で
僕らは答えを持たなかったし言葉もなかった。
母さんなら、意味のある言葉で励ましてくれたかもしれないけど
母が病気だった。

そして痛みに苦しんでいた。
一度回復に向かったかのように見えたのは束の間だった。

多分一回だけ一緒にいつものように食事を食べたんだ。

あーこれで悪夢は終わったんだって、
もう誰も秘密を持つ必要もないんだって
思ったんだけど

次の日からまた高熱が出て
病状は悪化する一方だった。

本当に坂を転げ落ちるという言い方がいいように
治療するほど、母が苦しみ、病状は悪くなった。

なすすべがないというのはあの日々のことなんだ。
何をしても楽しくないし
もう楽しいことなんてないんだなって

何を食べても紙の味がしたし、音楽は全て工事現場の騒音にしか聞こえなかった。

母は苦しんだ。
痛みにだ。

あんなに我慢強い母が傷み声をあげるのはどんなに痛かったんだろうと思う。
モルヒネが効いている時間だけが彼女の平安だった。
モルヒネが効いていない時間は頭は冴えていたけど、痛みに震えていた。
母には信仰があったから、最終的には神の元に戻るっていうことで自分を安心させていた。
僕らは安心じゃなかったけど、母に信仰があって良かった思ったんだ。
少なくとも、母は平安を目指すことができたから。

モルヒネも効かなくなる頃
そんな悪魔な時もあるんだ。
母は悪いことは何にもしてないのにどうして苦しまなきゃいけないんだろう
幻聴や幻覚を見ていたような気もする。
あんなに平穏だった母の姿は全く違うものになっていた。
こんなに苦しむのなら、死というものをもっと近づけてもいいのではないかと、姉も思っていたに違いない。
何が幸せなのか。生きるということはどういうことなのか。

母は素晴らしい人だった。
全ての人に親切だった。
とても聡明で本当に誰にでも優しい人だった。
人のために仕事をして、家族のために生きた人だった。
そんな人がこんな最後をもたらすことは16歳の僕にはわからないことだった。

今の僕にもわからないんだ。

素晴らしい人生を送ったとしても
正しい人間だったとしても
苦しんで死を迎えることがあるという
人生の壮絶さは誰も説明ができないものだった。

僕たち家族はあまり話さなくなっていた。
みんなうちに籠るかのように、傷を見せないようにするかのように、口少ない家族になった。

怖かったんだ。
母さんはいついなくなるんだろう。
そうしたら僕らの人生はどう変わっていくんだろうかって。

母さんが息を引き取ったとき僕ら家族はある意味安心した。
生きてることが辛いのは彼女だけじゃなかった。痛みを堪えている姿を見続けているのは、そしてモルヒネが効かなくなってからの日々はとても長く感じていた。
ジリジリと死に向かう姿は僕らも消耗させていた。

母さんはカソリックだった、だから教会で葬式をした。小さい町の教会には入りきれないほどの人がやってきて、母のことを憂い、泣いた。僕はその風景みたいなものを映画を見るみたいにして見ていた。あの頃から、なんていうか自分に起こっていることがまるで、違う場所から見ているかのように、感じることがある。多くの人は泣いてたけど、僕は泣けなかった。なんだろう。不思議だったなあの日は。

悲しかったけど何故か自分に起こったことじゃないことのように感じたから。

町外れにある家族代々伝わる墓に入った時にはもう日が暮れていて、母さんがいない家に帰ることがわかった。こういう日は母さんと話したいなって思った。母さんのお葬式なのに。

お葬式までは、病気の看病とか、お葬式の準備とかで僕らは少し儀式めいた、特別な日を送っていたんだけど。
母が亡くなった次の日からはまるで母は今まで存在してなかったかのように日々は過ぎていった。それが僕を苦しめた。

父も姉も母の話は誰もしなかった。
母のやっていた家事の分担をすると、それは嫌味なほどスムーズに前に進むしかなかった。
本当にかけたものが何もないように、何もなかったかのように
母は今までいなかったかのように日々は過ぎていった。

そう、僕ら3人はもう母の話をすることはなかった。言語化する力を誰も持ってなかったんだ、母以外そんな力を持っている人はいないんだ。母はいないから。その悲しさを誰も分かち合うことはできなかった。

もともと内気だった姉はもう何も感じていないかのように振る舞った。母さんがやっていた家事を、料理を作ったり、洗濯物を干したりを何一つ文句も言わず黙々とこなしていった。父も前のような気楽さは無くなった。僕らは今日一日あったことを話すこともなくなり、そして母の亡くなった悲しみさえなかったかのように毎日過ごしていった。それは僕にとってはとても難しいことだった。
母がいれば何か言葉を紡ぎ出してくれただろう、こういう状況について何かの見解や解釈、そして人生においての意味を説明してくれたに違いない。
でも彼女はもう死んでいたから。

自分の死のことを語ることはできなかった。

僕と父と姉は嵐がさって、なんにも無くなった場所に、裸で暮らしているような気分を味わっていた。でもその話は秘密だった。誰もできなかった。

母の喪が開けてすぐに父は再婚した。
僕と姉は深く裏切られたかのような気持ちになったけど、何も言えなかった。

「父さんにとっては母さんはもういないの?」

父の選択は今ならわかる。ページをめくったんだ。
母の代わりと言えばいいのか、父の新しい妻はとても素朴な人だった。
母のように繊細な感情もわからなければ、教養というものもなかった。
ギリシャ哲学から何かを解いてくれるようなこともなかったけど、優しい人ではあった。
少なくとも、優しくしようと努力してくれていた。
母の代わりはできなかったけど父の母を亡くした穴はどうにか埋めれたんだ彼女のおかげで。

いっそう母のことは話さなくなった。写真もなければ、命日を偲ぶこともなかった。
母は大きなものを残していったけど、もう何も残ってない、まるでいなかったかのようになってしまった。

僕はそのことで深く傷ついたけど、その傷を癒したり、そして寂しさを埋める方法をみつけることはなかった。

その後僕にも彼女ができて、父を許し、姉ともまあまあ話すことができるようになった気がする。ただ、その彼女のことを本当に好きだったかなんてわからない、何より失うのが怖かった。別れることは、母と別れることを思い出させて、好きでもないのに付き合い続けた。今の妻と出会うまでは。惰性というもので繋がれていたのかもしれない。なんとなく彼女を傷つけ自分も傷つけたかもと今では思う。

母さんが今いたらきっと僕の娘の存在に喜び、僕の妻ともきっとうまくやってただろう。そういう人だったから。

僕は30年経った今もこの経験が僕の人生に何をもたらしてくれたのかはまだわからない。
そしてその傷がいえたのかどうかさえわからない。


よく全ての出来事には意味があって、全てが必然だと言う。何かを学ぶ必要があるんだと。
でも母さんの死にはその意味をもたらしたくない。母さんの死からは何も学びたくないんだ。

まだそれをするには僕の人生は始まったばかりに感じるから

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