「どうでもいい」という豊かさ
はじめに
怠けだすと止まらなくなるのは人の性で、始めたころは3日と空けず登校していたのに、1か月以上サボってしまいました。これはいかんと一念発起。また、お付き合いください。
さて、今回の文章は、(担任ではなく、授業担当をした)高3の生徒たちに最後の授業で配った文章です。
「何で古典を学ばなきゃいけないの?」
必ず聞かれる質問です。いまだに、友人どころか、知り合いの知り合いにまで聞かれたりします。
昔は「マジレス」していたけど、今はもう相手にしません。人間が必要性で学べるのならば、こんな簡単な話はない。そんなものを求めてくる時点で、その人には学ぶ気はない。
そして、学べるだけの素地を作らずに何十年も生きてきたことの証です。
これは、必要かどうかではなく、合う/合わないの問題です。僕は、古典を愛せる側にいたい。そう思うから古典を学ぶし、教えています。(「受験」と「ビジネス」が付かない勉強をしたことがない人には分からないけど)卒業してからが面白いんだよね、勉強は。
「どうでもいい」ものこそ崇高な「教養」だ
多くの人にとって、古典(古文漢文)というのは謂わば「どうでもいい分野」である。その理由は「知らなくても生きていけるから」である。
そして、そのような主張を得意げにする種類の人間は僕にとって「どうでもいい」人だ。別に僕も「古典を知らなければ死ぬ」と思っているようなアホではない。
冒頭から挑発的な言い回しになってしまったが、まあこれが最後なので広い心でお許しいただきたい。
さて、そのようなご時世に、この授業を選択してくれて、そして僕の授業に付き合ってくれたことを心から感謝している。
そして、そんな君たちのことを僕は心から尊敬している。だから、使い回しは一切せずにすべての授業を作ったし、君たちが書いたものは全て添削した。
「難しいからやめておこう」という発想は、一度もしなかった。それに最後まで付き合ってくれたことに心からお礼を言いたい。
高校生にこんなことを言うのは反則だが、古典というのは「これから面白くなってくる分野」である。
既に好きな人もいるかもしれないが、それでもやっぱり知識と経験を重ねた方が楽しめる。だから大学4年間のどこかでもう一度、騙されたと思って触れてみてくれ。
僕は私立大学の付属高校で怠学に怠学を重ね、数学の点があと数点低かったら退学になっていたような不良学生だった。
だが、高校に入ると、それまでほとんど読まなかった本をひたすらに読むようになった。古典は大して読まなかったが、授業はマジメに受けていた。
そして大学に入ると、古典好きの友人(※普通の高校にはあまりいないが、文学部に行くと結構いるのだ)の影響もあり、「伊勢物語」や「古事記」からはじめ、「和泉式部日記」や「源氏物語」、「雨月物語」や「好色一代男」など、色々なものを読んでみた。解説書や批評・エッセイなども結構読んだ。
附属高校ゆえに全く受験勉強をしていなかったので、貧弱な知識でのスタートだったが、訳や解説を見ながら読んでいけばある程度読めるようになるものである。
反対に、受験で古典が得意だったからと言って、古典の本を一冊読み通せるわけではない。
そんなわけで、受験勉強をしていない上に現代文が専門の僕でも、まあ何とか進学校で古典を教えられる程度のリテラシーは身についた。
社会人になり、30歳が近くなったころから、落語や歌舞伎が好きになった。最近では講談をよく聞いている。
そんな約20年間を過ごして入試問題や教科書を見てみると、やっぱり捨ててはおけない文章だと実感できたのである。
さて、これはおぢさんの思い出話でもなければ、自慢話でもない。ここからが大事なのできちんと読んでくれ。
僕は風が吹いて桶屋が儲かったような偶然の巡りあわせで、古典や伝統芸能の面白さが少しは分かるようになった。
しかし、あの時、古典の勉強を全然していなかったら?国語の教師をしていなかったら?たぶん「伊勢物語」も歌舞伎も、ほとんど「分からない」まま興味を持つことはなかっただろう。
さらに、意外なことに理系の学者は文学にも造詣が深いことが多いのだが、そのような人たちから一目置いてもらえることもなかっただろう。これも「風が吹けば桶屋が儲かる」に「塞翁が馬」をかけ算したような巡り合わせで、一流の数学者の人たちと付き合ってもらえている。
教養とは世界形成的なものなのである。
この8か月程度で、君たちは随分と文章が読めるようになった、と感心している。
古典は楽しもうとしたところで、訓練しなければ読めないものだ。
せっかく身についたリテラシーを、ここで捨ててほしくはない。
君たちの知的な魅力を、最近はやりの「ビジネスモデル」とか「生成AI」とかそんなものだけでなく、文学や哲学や歴史などの分野でも発揮してほしい。
それが別に大学生の時ではなく、30歳になってからでも60歳になってからでも結構だ。
その時、「ああ、あの古典の教師は大して知らなかったんだな」なんて思ってくれたら最高にクレイジーな体験だ。
自分よりはるか遠くに行ってくれたら、教師冥利に尽きるというものだ。
最後は、大学生のうちにぜひ読んでもらいたい批評の極致、小林秀雄の「無常ということ」で締めくくろう。こういうのは、現代文だけ読んでも分からないものの良い例だ。
あとがき
色々書きましたが、多くの人にとって、特に若い人にとっては古文よりも現代文(近代以降の文学や評論)の方が、圧倒的に親しみやすいのは、当然のことです。
それはもちろん、僕にとっても同じです。実際、古典を教えてはいますが、僕は現代文が専門です。
でも、やっぱり高校3年間、週2、3回の、それも受験の制約を受けながらの授業を受けるだけでは得られない魅力が存分にある。
それを今度は受験とは違う枠の中で楽しむことが出来れば、やはり世界は豊かになるのだと思います。