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信念と信頼

ガラガラとシャッターを開けると、所狭しとつみあげられたダンボール。大きな家電と小さな部品。コードやら工具やらが、まるで飼いならされたように自分の居場所をみつけ静かにしている。

僕のおじいちゃんは電気屋さんだった。
個人経営で、町に住む人から仕事の依頼を受けては、しゃがれた音の鳴る車でそろりそろりと出張していた。すでに他界したものの、僕もまだ小学生くらいの時におじいちゃんと出張してお仕事のお手伝い(エアコンの修理)をした記憶がある。

あれは夏休みの日だったか、おじいちゃんのお仕事についてくわしく訊ねたことがあった。

「なぜ電気屋をはじめようと思ったの?」
おじいちゃんは昔から機械を分解して内部の仕組みを理解するのが好きだったらしく、しょっちゅう新しい家電をバラしては再び組み立てていたそうな。大手量販店が作る家電の仕組みを分解して知ることで、自分の技術として修理や工事のお仕事などに活かしていったという。

「自分にもできる」

そんな話の最中、僕はおじいちゃんの仕事に対する考え方を知ることになる。
「あの人にできて、自分にできないはずはない。」
おじいちゃんは常にそう考えて、独学で技術を学び、顧客との関係をつくり、お仕事をしてきたらしい。この信念と探究心から、最新家電の内部構造や、カラクリを解こうとするエネルギーが生まれるのだろうと思った。

他人にできて、自分にできないはずはない。言いかえれば「あの人にできるなら、自分にもできる」。たしかに、こう考えるだけで自然と心に火がつく僕の感覚は、負けず嫌いなおじいちゃんゆずりなのかもしれない。
技術者として、家電業界の一端を担い、お客さんの生活を支えていたおじいちゃんの"技"は、そんな信念のもと育ったということを知った夏だった。

ただ、この話をきいてからしばらく、僕には気がかりだったことがある。「他人にできるなら、自分にもできる」ということは、裏を返すと「自分にできることは、他人にもできてしまう」のではないかということだ。
よく考えてみれば当然のことだ。技術は所詮技術であり、学び学ばれ、盗み盗まれる。「だれの」技術かということは置換可能であるからだ。つまり、「あの人にできるなら、自分にもできる」と考えることは、自分と他者の可能性を同等にひろげることにすぎない。

でも、ほんとうにそれでいいのだろうか。
「自分にしかできないことがある」はずだ。
おじいちゃんの信念を学びつつも、僕は心の中でそう信じていた。

「自分にしかできない」

「自分にもできる」ようになるには、技術を学ぶことだ。技術を信じることだ。では「自分にしかできない」ことをするにはどうすればよいのだろう。

僕にしかできないことをする。他者にはできないことをする。
これは技術やモノには依存しない唯一性からして、きっとその人(存在)そのものに対する信頼から生まれるのではないだろうか。

技術に対する信頼は、人が変わっても置換しうる。誰がやっても、時間をかければ技術はやがて身につくからだ。しかし、自分という人間は置換できない。この世に一人しかいない。
だからこそ、「自分にしかできない」ことをするためには、まず自分自身(の存在)を信じる、あるいは信じてもらう必要がある

つまり、「あなただからこそやってほしい」「あなたにしか頼めない」「あなたがやっているからこそ応援する」と言ってもらえるような、自分そのものへの信頼が要だと思う。

僕が事業をはじめた「古物商」の世界では、モノの価値は極めて曖昧なことが多い。あちらの店で100円で売っていたものが、こちらの店では1万円もするということは珍しくない。中にはゴミに出される予定だったものが、実は国宝級の代物だったなんてこともある。
それは◯◯鑑定団などでみる「見る人が見れば判る」という"価値付け"が成り立つ世界だということからも理解しやすい。
つまり、誰かにとってみればゴミ同然のものでも、ある人からすればお宝になるという相対的な価値観の上に成り立っている仕事が古物商であるというわけだ。 

だからこそ、僕は皆が普段見向きもしないような不良品やボロいモノの中から、「美しい(まるで自然の理の厳しさや儚さ経年変化することの尊さを具えているなど)と僕自身が感じる」モノを見つけだし、その価値を発信して問いかける"しごと"がしたい。

ひとつのモノの価値は、市場においては相対的(見る人によって異なる)だ。でも、僕自身が美しいと感じたその感性は、僕からうまれてくる絶対的なものだ。その価値を自分自身が信じ、それを信じてくれる–その人の価値観で感じとってくれる人がいるとすれば、それは僕にとって「自分にしかできない」ことなのだろう。

古物商はなかなか理解されにくい職業だ。
僕は単に安いモノを高く売りたいわけじゃない。

僕は、自分がこの世界をどう感じ、観ているのか。

自然体ってなんだろう。
価値ってなんだろう。
愛ってなんだろう。

そんな僕の"まなざし"を通して、
生きている人間らしい表現活動がしたいんだ。

自分の内から出てくる感性を信じて、
僕という存在を信じて、
自分の愛する古物を、
愛する世界を、
自分の言葉で自分の写真で
表現して問い続けて
生きていたい。

僕にしかできないことを求めて。

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