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eigamuro
2024年3月17日 09:28
アメリカンニューシネマについて書き、「映画は、その時代を反映するものだなぁ」と思ったけれど、ふと、いやまてよ、と。特にアメリカ映画の場合は、その市場が世界的規模だから、当然の様に、その市場を睨んだ映画を創る、ことが多くなるわけで。つまり、今のこの時代、どんな映画を創ればあたるか(売れるか=儲かるか)、と始めから考えて創られる、場合が多々ある、と思われる。で、日本の場合。アニメや小説
2024年2月23日 10:44
アメリカンニューシネマについて書き、「映画は、その時代を反映するものだなぁ」と思ったけれど、ふと、いやまてよ、と。
2024年2月11日 12:08
きっかけは、森崎東監督の『ニワトリはハダシだ』(2004)を見たことによる。話しの内容がイマイチ良くは解らなくて(原作でもあったのだろか?)、&気になった出演女優もいて(肘井美佳)、検索。どーやら、『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(1985)の続編になるらしいと解り、その映画もポチ。そーしたら、ら、らら。。!、その映画が、キノシタ映画製作の一作め映画だった。「名古屋の
2021年12月4日 06:14
1916.05.28 ~ 1998.05.14山田典吾氏は東京神田の出身(?だったはず)で、日芸卒業後、東宝入社。1951年現代ぷろだくしょん設立後、しばらくはプロデューサーだった。製作者として、『蟹工船』'53、『真昼の暗黒』'56、『夜の鼓』'58 。1972年より、山田火砂子さんが現代ぷろだくしょんに参加し、以後、この夫婦コンビが続く。。1972年頃、山田典吾さんは、56歳くらい
2021年12月4日 06:08
https://www.gendaipro.jp/company.html現代ぷろだくしょんといえば、 『はだしのゲン』三部作、『裸の大将放浪記』『春男の翔んだ空』なんかの、 山田典吾氏が代表というイメージが強いのだけれど、 その歴史は古いのだった。昭和26年、山村聡、森雅之らが中心に発足。後に三国連太郎も参加。山田典吾、代表取締役に就任。当時山田典吾35歳。1953.昭和28年、『村
2021年12月3日 07:15
『十九歳の地図』 のスタッフに、中村賢一の名をみた。「 原田真人」を調べていた時『ウィンディー』の製作にあり、その後に山田典吾氏について書いてたら『はだしのゲン/涙の爆発』に、また名をみつけ、私の大好きな『この胸のときめきを』にもあったし、 そうして『十九歳の地図』だ。「中村賢一」で検索してみると、関わった映画作品は出てくるのだけど、その人の略歴を書いてあるものがみあたらなかった。一番
2021年10月23日 05:58
最初に映画製作したテレビ局会社は、フジテレビ、だと思う。五社英雄監督映画『御用金』(1969年)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E9%87%91_(%E6%98%A0%E7%94%BB)と、いうか。「五社英雄」で検索してみたら、五社英雄は、もともと映画を造りたかった人だった。ところが、どういうわけか?、明治大卒後受
2021年10月24日 20:03
ロジャーコーマン。・・!ジャックニコルソンに関して調べていたところからだった気がする。『カッコーの巣の上で』が好きだったし、『シャイニング』の、あの顔が忘れられないし、だったりして。それから、『イージーライダー』をみて、ここに出てたジャックニコルソンも若かったけど、もっと若いニコルソンが出ている映画、ってぇことで、『リトルショップオブホラーズ』を知って、見て、そうして、ロジャーコーマンを