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(25)5歳頃からの積読本が「本読む子」への最短ルートでした~10年前に出会ったママさんへ~

 お手紙、つづきです。
 
「家にある本で、デジタル漬けになる前に『読む』習慣を」
            
・・・というお話をしています。

 
 低学年までは動画やゲームがなくても家で楽しく過ごせます。
 「みんな見てる」「そういう時代」は少し横においといて・・・
 読む楽しみとすんなり出会える時期を大切にしたいなと思います。
 
               
・お手紙(24)はこちらからどうぞ。
(24)5歳頃から〝積読本〟と暮らすことが「本読む子」への最短ルートでした~10年前に出会ったママさんへ~|涼原永美 (note.com)
 
 
 今日は

「読書の筋肉はまるで音楽のソルフェージュ」

             ・・・というお話です。
 
 
 さて、シオリさん。
 突然ですが、シオリさんは、ピアノが弾けますか?
 ピアノじゃなくても何か弾ける楽器があったり、楽譜を見て初見で歌が歌えたりするでしょうか?

 ーーもしできるなら、子どもの頃に何か習っていませんでしたか?
 
 (ちなみに私は、何も習っていなくて・・・今もできません)
 
  子ども時代に音楽を習っていて、楽譜を見て反射的に演奏できたり、正しいメロディを歌えるところまで技術を習得した人って、その後ブランクがあっても、ある程度、体が覚えているものですよね?
 
 同じように、子ども時代に数年間、野球やサッカーをやっていた人は、おとなになってもボールを見れば自然と体が動くのではないでしょうか?
 
 少なくとも、何もやっていなかった人に比べればまったく違うはずーーそれが「体が覚えている」ということだと思います。
 
  ――このお話、じつは読書とも関係があるんです。 
 

読書にも、子ども時代に身につけておくといい「基礎力」がある

 ・・・と私は思います。
 音楽ならソルフェージュ、スポーツならドリブルやパスなどの基礎トレーニング。
 ・・・読書ならたとえば「読書の筋肉」というものでしょうか。
 

 子ども時代にこの「読書の筋肉」を鍛えておくと、おとなになっても読書に対して体が反応しやすくなります
 楽譜を見るとピアノが弾けるように、考えなくても自転車に乗れるように、パソコンならキーボードを見なくても文章が打てるように。
 

 ――シオリさん、本を読むのが苦手なのは、努力不足だからじゃないと私は思います。
 10年前に知り合った時、「私は本を読むのが苦手で・・・」と少しうつむいていましたが、何も悪いことも、恥ずかしいことも、後ろめたいこともありません。ごくシンプルに、そういう機会、積み重ねをするチャンスがなかったからではないでしょうか?
 
 もちろん、音楽やスポーツとまったく同じにはできません。
 大抵の人は、読もうと思えば本は読めるから。
 ただ、慣れていないと読みづらい・・・その差があるんです。

 
  ――では、

 具体的に読書の筋肉ってどういうスキル

 なのでしょう?
 
  これは、あくまで個人的な感覚と対話から得たものなのですが・・・。

 私のまわりには、シオリさん以外にも「本を読むのが苦手」という友人が何人かいて、話を聞いてわかったことがあるんです。
 
 ハウツー本ややエッセイなどはともかく、
 長編小説を一冊読み切るのに苦労する・・・という人が多いんです。
 その苦手意識には共通点があって、

「長文を読む習慣があまりないのでとにかく時間がかかる」
「今読んでいる部分がどう本筋に繋がるのかわからないので、モチベーションが保てず疲れてしまう」
・「本の厚みを見ただけで、いつ読み終われるのか想像がつかない」

 ーーと、大体こういうことがハードルになっているようなんです・・・。
  これは、読書の筋肉がないために感じるハードルなんですね。

 
 読書の筋肉がある人は、おとなになっても比較的
 「忙しくても時間を見つけて本を読む」ことができます。
 「そうしたくてもなかなかできない」人との決定的な違いは、

「文章を読んで素早く情報を整理・イメージする脳の習慣」

 が確立されているかどうか

 ・・・なのではないでしょうか。
 

 読書慣れしている人は「見当と緩急」で本(長編)を読みます。

 ひとつの言葉、1行のニュアンス、数行にわたる文章のかたまりを、パッと「見て」イメージを浮かべることができます(内容の難しさにもよりますが)。ーーなので、読むのが早いです。

 
 そして、たとえば500ページくらいの小説を読んでいる時、「この章、本筋とどう関係してくるのかな?」と思っても、「読めばわかるだろう」と察することができますし、じっくり読むのに疲れそうな箇所は、「とりあえず表面上の文章だけ」さらりと読み流し、自分のペースで読み進めることもできます。

 そうして読み終わり、全体像の記憶が新しいうちに、「難しかったけど終わってみるとこういう話だったんだ」「ここが伏線だったんだ」・・・と、確認したい場面だけ読み返すこともできます。

  これを繰り返すことで、自分なりの感想を持ったり、読解力を身に付けていったり・・・読書の筋肉が自然と鍛えられていくんですね。

 ピアノなら、子どもの頃に簡単な曲から始めて、「弾けた!」を繰り返すことで頭と体(指)の感覚がどんどんつながっていくような・・・感じかなと思います。


 小説って、ニュース記事などにはない、小説ならではの文章のニュアンスや、独特の展開があったり、長編には長編の、短編には短編の文脈があるものなんですが、子どもの頃にある程度の冊数を読んでいると、こういうものに自然と慣れていきます。
 
 
 ところが、あまり読み慣れていない人は、1行1行真剣に向き合って意味を考えてみたり(もちろん良いことなんですが)、理解のおよばない箇所や難しい表現が出てくると「わからない・・・」と思って手が止まり、「その先を読みたい」という勢いそのものが失せてしまったりする・・・いろいろな人からお話を聞いて、そういうことなんだと気づきました。
  
 
 ――読書の筋肉の持ち主が一冊の本に対してはたらかせる勘は、演奏者が一曲の楽譜を見て「こういう曲かな」と感じたり演奏法を考えたりすることに似ていると、私は思います(レベルの差は人それぞれでしょうが・・・)。 
 
 また、登山慣れしている人が、山の難易度や気象情報を調べてみて、上る前にある程度登山ルートを組み立てられるのとも、似ていると思います。

 
 対象物に関して、
 全体像をイメージするチカラ・・なのかもしれませんね。

 

 私は、ある程度の年齢になってから「読んでみよう」という気持ちを持った人が、「やっぱり一冊を読み切れなかった」「すごく疲れてしまった」という結果に達してしまうのは、すごくもったいないと思っています。

 いま、

本を読む人の数も、街の書店もどんどん減っている

・・・と言う話をよく聞きますよね。  

本好きの裾野を広げるのなら、子ども達が本好きになるのがいちばん

 です。これ以上の解決法はありません・・・。


 たくさんの人が子ども時代に読書の筋肉を少しでもつけたら、
おとなになっても気軽に読書する人が増えて、10年後、20年後、
書店がなくなることもない
のかな・・・と、考えたりもします。

 
 読書の筋肉を基礎学力として考えてもらえたら、国語の一環として「読書」という教科が増えてもいいんじゃないか・・・と想像したりもします。
 

 言葉を、文章を見てパッとイメージが湧く読書の筋肉、文脈に対する読解力は・・・私は

デジタル習熟度と同じくらい大切

だと思っています。
 

 
 お手紙、つづきます。

 
〈文学にもソルフェージュがあればいい 文字でイメージすぐ湧く基礎力〉


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