noteという優しい受け皿。タピオカを吸い上げたり溜飲を下げたりの日
タピオカドリンクを飲んだ。たぶん5年ぶりぐらいに。
コロナ前、めちゃくちゃ流行ったな、なんであんなに流行ったんだ。お洒落ドリンクの座を獲得しお洒落女子たちに人気があったイメージだけど、カップの底に沈むタピオカを吸い上げる姿は、自他ともになんだか面白いと思ってしまう。タピオカドリンクを買った人はみんな、ちゃんと残さず吸い上げているんだろうか。
タピオカナイズされたぶっといストローで、私はカップの下半分を占める氷をかき分けて一つ残らず吸い上げる。勢い余って誤嚥しないように微妙に注意を払いながら。
吸い上げながら、今日モヤついたことをぼんやり考えていた。
実母はしょっちゅう育児の手伝いに来てくれる。
今日も午後、90分弱ぐらい来ていた。
我が息子、母にとっては初孫を、溺愛している。
可愛がりながらも、ぐずって暴れてこちらを力強くキックする息子のことを、母は「乱暴者」と言った。
ただそれだけ。別に深い意味はない。
でも、とても嫌な気持ちになった。
誰かの発言に対して気持ちがどう反応するかって、その人との関係性に大きく依るなと改めて思う。
例えば同じことを夫や父が言ったとしても、「そんなふうに言わんとってくれるー!?」とスパッと言い放って後に引きずることもなかったんだろう。
でも、母に言われると、発火する。否定的なことばかりずっと言われてきた記憶がまだ脳みその無限空間で生きていて、ちょっとしたことで発火するんだろう。それに対して何か言おうものなら逆ギレされるかもしれない、面倒なスイッチが入って面倒なことになるかもしれない、と瞬時に言葉を飲み込んでしまう。飲み込んだ言葉は行き場を失ってジタバタと落ち着かない。
絶縁せなあかんのちゃうか、という長年続いた切迫感は自然消滅?自然寛解?したし、ハタから見たら平和そうな関係なんだろうけれども、今日みたいな些細なことでめっちゃ消耗する自分を見つけると憂鬱な気持ち。
なんで愚痴ってSNSに書き込みたくなるんでしょう。
夫に愚痴るのでは飽き足らず、こうやって念を込めてキーボードをカタカタ鳴らしているのはなんでなんだろ。
誰かに話をしっかり聞いてもらうって、少しハードルがあるからかな。話す方は、聞いてくれる方に、ある種の形のリアクションを期待してしまう。「期待はずれ」だったら勝手ながら余計フラストレーションが溜まることもある。
一方でSNSは、特定の誰かじゃなくて、不特定多数の人たちに向けて言葉を放つから、リアクションの期待度合いが薄まる。リアクションがなくても構わないし、誰かリアクションしてくれたら、自分の「正しさ」にハンコを押してもらえた気がして気持ちがいい。
他の人はどうかわからないけど、今の私はそんな気持ちで今日のモヤモヤをここに書いているんだと思う。
noteという大海に、然るべきときに開放されず飲み込まれた言葉を放って、溜飲を下げている。noteがやさしい受け皿になってくれている。
負の念が刻印されたnoteになってしまった。読んでくださった方、ありがとうございます。誰か一人は読んでくれるだろうと思うと、負の念送りしてすいませんとちょっと思いつつ、でも気持ちの体重が軽くなる気がします。私もひっそり、読みに行かせてもらいます。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?