「うちの絵本箱」#2「寓話物語スイミー」
0.はじめに
「うちの絵本箱」は、私が夫と立ち上げた同人誌で、今年9歳になった我が愛娘と共に読んできた、うちに眠っている絵本くんたちへの恩返しを考えた企画です。繰り返し読むうちに、実感としてこれだと思ったことをできるだけフランクに書くことを目指しています。第一回は『ぐりとぐら』を取り上げましたが、第二回は、レオ・レオニ作、谷川俊太郎訳『スイミー』を取り上げます。個人的な話になりますが、『スイミー』は、私の母がとても大切にしていた絵本で、確か私の妹が小さいころに母が買いました。私自身は、『スイミー』とは、小学校の教科書で出会ったように記憶していますが、一読して非常に印象に残った話でした。今回は、私の娘も大変気に入っており、何度も何度もせがまれて読むうちに、私自身いろいろ考えるところがあり、それも面白い発想のものでしたので、文章の形にしてみることにしました。
1.谷川俊太郎訳のすごさ
『スイミー』(一九六三)は、オランダ生まれでイタリアとアメリカで活躍した、世界を代表するイラストレーター・絵本作家であるレオ・レオニ(一九一〇-一九九九)の、アメリカでもっとも権威ある児童文学賞コルデコット賞次点を獲得した四作品のうちの一つで、出世作です。処女作『あおくんときいろちゃん』、『フレデリック』など、他にも代表作はいくつもあるのですが、日本では、特にこの『スイミー』が、小学校の国語の教科書(光村図書出版刊、小学二年生用)に使用されていることもあって、知らない人がいないというほど、広く知れ渡っています。
では、なぜ日本でこれほど『スイミー』が人気かというと、それはまず、絵・文ともに原作が優れているからというのはもっともですが、とりわけ訳者である谷川俊太郎さんの優れた技量に負っているからといえるのではないでしょうか。
確かにレオ・レオニ作『スイミー』は、もともとすぐれた作品ですが(そのわけは後で説明します)、谷川訳『スイミー』は、まさに谷川さん本人の文章になりきってしまっているといえるくらい、よい意味で谷川的であり、日本の『スイミー』愛読者にとって、それを日本の詩人の第一人者である谷川俊太郎さんの訳で読むことができるというのは、大きな幸せであるとしかいいようがない事態なのです。
以下、その例を具体的にみてみましょう(註:その前に、本当は、谷川的であるという意味をはっきりさせなければならないのですが、谷川俊太郎研究者ではない私の手にはあまることなので、『スイミー』を読んだだけではっきりわかる文体の特徴を捉えたいと思います)。
私は大きくとらえてざっと次の二点に気付きました。第一点目は、絵本にふさわしく、文章を平易にわかりやすくする工夫がなされている点です。第二点は、詩人としての独特 のセンスで、美しい意訳が行われている点です。
わかりやすくする工夫
まず、第一点目を詳しく見てみましょう。これを具体的に考えると、さらに次の四点が挙げられます。
1) 個々の単語のレベルで、大胆な省略や短縮が行われている点です。たとえば、“his brothers and sisters”は「さかなの きょうだいたち」と訳されています。「しまいたち」が省略されていますね。また、日本語として、助詞や動詞の音便が省略される傾向にあることも特徴的です。「たのしく くらしてた」となっており、「たのしく くらしていた」にはなりません。これらの傾向は、必要以上に文を長くせず、わかりやすくするとともに、リズミカルな文体を構築することに貢献していると思われます。
2) 英語の原文にはない接続詞を入れたり、逆になくしたりし、長くなったらいったん切る、大事な情報は前にもっていく、などの、長い文章をわかりやすくするための構造的な工夫がなされている点です。「でも およぐのは だれよりも はやかった」の「でも」は英語の原文には見当たりません。「うなぎ。かおを みる ころには、しっぽを わすれてるほど ながい…」。この部分は、日本語では二文にわかれていますが、英語では、一つの関係代名詞節で、一文です。これらの工夫は、長いものを短くしてわかりやすくするという以上に、英語を日本語に直すうえで必然的に出てくる、言語としての構造的な違いを修正するために行われていると思われます。こうしてみると、かなりわかりやすくなったような、また、独特の節回しがユーモラスに響くような気がしてきますね。
3) 単語の大胆な入れ替えが行われている点です。そのもっとも顕著な例が、”he”を、「スイミーが」に訳しなおしている部分でしょう。これも、自然な日本語に直すために、英語自体の持つ癖を克服する工夫の一つと思われます。
4) 誰しもすぐ気が付くことですし、特に谷川訳に限定されることではないのですが、絵本としてひらがながき、わかちがきになっている点を挙げておきます。これらのおかげで、ずいぶん文章全体がわかりやすく平易に、また、透明で、詩的になる印象があります。
以上、四点挙げましたが、このような理由で、谷川訳『スイミー』は、かなり平易でわかりやすく、とっつきやすい印象のある作品に仕上がっているといえるのです。
美しい意訳
それでは、谷川訳の優れている理由の二点目についてです。一言で、美しい意訳といえるでしょう。詩人谷川俊太郎は、直訳の不可能な部分については、その詩人としての資質を最大限に生かして、独特の美しい表現を選び取っています。これは、個々の部分を個別に取り上げる他にはないでしょう。
まず、冒頭部分から。スイミーについて、”as black as a mussel shell”と、同格であるのを、「からすがいよりも まっくろ」”と、比較級的に訳しています。これは面白いですね。
スイミーの黒さが、英語よりも生き生きと伝わってきます。このような細かい部分については、谷川訳はある意味で、原文を超えてしまっているといえるかもしれません。
次に、物語の発端である、おそろしい事件について。”a tuna fish,… , came darting through the waves”「おそろしい まぐろが、…ミサイルみたいに つっこんで きた」。”dart”とは、投槍や矢のことなのですが、「ミサイル」と訳しているのが秀逸です。
続く、失意のスイミーの孤独な冒険の部分。”He swam away in the deep wet world.”「スイミーは およいだ、くらい うみの そこを」。「深い湿った世界」などと直訳しないところが、日本語のセンスを感じられていいですね。
その冒険で出会った”a forest of seaweeds”は、「こんぶやわかめのはやし」。単なる「海藻の森」などとしないのですね。生き生きとしたイメージがわいて、鋭敏な言語感覚というものを目の当たりにさせてくれます。
最後に、新しい仲間を見つけたスイミーのとった行動。”Swimmy thought and thought and thought.”「スイミーは かんがえた。いろいろ かんがえた。うんと かんがえた」。面白い副詞の使い方ですね。英語では、一見ただ繰り返されるだけながら、強調の含みがある文になっていますが、谷川訳では、さらに畳みかけるような奥行きがあり、リズミカルな三センテンスにわかちがきになっています。英語の原文の持つ含みを、原文以上にうまく日本語に直せているといえるでしょう。
このように、谷川俊太郎さんは、個々の意訳において、その独特の秀逸なセンスを見せつけているのです。特に、それはスイミーが海の底で出会った不思議ものたちの比喩的な描写で顕著なのですが、まさに、谷川翻訳の真骨頂といえると思います。それは、独特で、だからこそまた、美しいのです。
こうして、谷川訳ということにより、日本語版『スイミー』が、平易で、かつ美しいことがわかりました。こうした谷川訳で読めることが、日本人の幸せであり、『スイミー』の人気につながっているという側面も、間違いではないと言い切れると思います。
それでは、次に、英語・日本語の枠組を超えた『スイミー』の魅力に迫ってみましょう。
2.寓意物語『スイミー』
話は少しわき道にそれ、また個人的な話になりますが、私が娘に『スイミー』を読み聞かせるたびに思い浮かぶことがあります。それは、スイミーを目として大きな魚のふりをして、大きな魚を追い出した小さな魚の兄弟たちの話が、スイミーをリーダーとする、労働者運動のように思えてならないということでした。大きな魚が搾取する大資本家、小さな魚の兄弟たちが、か弱い賃金労働者ではないかということです。これはあくまで私自身の、個人的なかなりうがったイメージなので、これ以上その是非を追究することはしませんが(話を聞かせた旦那にもびっくりされました…(涙))、このように、この童話は、さまざまな解釈を呼び寄せる、寓意に満ちたものであり、それが一つの大きな魅力になっているのではないか、ということが、『スイミー』について考える際に、常に私の念頭にあることです。
寓意とは何か
そもそも「寓意」とは何でしょうか?『広辞苑』(第四版)をひも解いてみると、「他の物事にかこつけて、それとなくある意味をほのめかすこと。寓喩」とあります。端的に言えば、表の意味の裏側に、別の意味が隠されていること、といえるでしょう。『スイミー』も、表の意味の裏側に、何らかのメッセージが隠されているように読むことができます。その意味で、『スイミー』も、他の名作童話にもよくあるように、寓意小説の一種、寓意物語とでもいったほうがよいものなのです。
隠されたメッセージ:二つの解釈について
それでは、どんなメッセージが隠されているのでしょうか。よくある解釈では、小さな魚の兄弟たちが大きな魚を追い出したように、「みんなで力を合わせれば、大きなことを成し遂げることができる」というメッセージだそうです。私はこれを、より具体的に、「弱者たちが優れたリーダーを得て、強者を追い出すことに成功するという、社会派サクセス・ストーリー」と言い換えたいと思います。私はスイミーがいたからこそ、兄弟たちが力を合わせることができたのであって、力を合わせることに主眼があるとは思えませんでした。また、ただの「大きなこと」では、あまりに漠然としすぎて、物語の実態に合わないと思うのです。このメジャーな解釈では、せっかくの『スイミー』がつまらない教訓物語に堕してしまう危険性があると思います。さすが小学校教科書の教材になっているだけあって、堅苦しい道徳的解釈が主流であるといわざるをえません。それでも、それを私のように言い換えれば、少しは論理的になったといえるのではないでしょうか。少なくともより正確に作品世界のありようを捉えているといえると思います。そして、このより限定した解釈は、ある意味で、一定の効力があるといって差支えないと思います。明らかに作品の後半では、小さな魚たちの奮闘ぶりが話の展開の山場をなし、大きな魚を追い出したところで作品全体の落ちとなっているからです。この物語を語る上で、この要素は落としてはならないものでしょう。
その上で、もう一つ、全く違う観点からの解釈を挙げておきましょう。この解釈自体は、ネット上で私が見つけたものなのですが(註:少数派でしたが)、これは私自身の考えたこの解釈に関する根拠です。すなわち、この作品のタイトルは、ずばり主人公の名前の『スイミー』です。これを理由に、この作品は、主人公スイミーの冒険を表向きの題材に、その内面的成長を描いたものだといえるのではないかということです(註:日本語版の副題は「ちいさなかしこいさかなのはなし」。この谷川訳は、さらに以上の傾向を顕著にとらえているといってよいでしょう)。
他にもこの考え方の論拠はあります。これがネット上にあったこの解釈の主な論拠なのですが、仲間を失くした失意のスイミーがさまざまな不思議な生き物たちと海の底で出会った場面こそが、この絵本の一番中心的で、輝いている部分となっています(私もそう思います)。そして、なんと美しい描写の数々でしょう。それは第一節でも少しふれたとおりです。長く紙面が割かれているということもあります。こうしてスイミーが海の底というミラクルな場所でさまざまな見聞を広め、人間的に(?)深化を遂げたうえで、新しい仲間たちに出会い、思考を練ったり、リーダーとして実際の行動を起こしたりする。そして、見事に成功する。これがスイミーの通った、個人的成長の軌跡なのです。スイミーは心身ともに、また、個人的にも社会的にも、大きな成長を遂げるのです。そして、これが物語の中心線となり、作品全体の不思議な魅力の源となるのです。この意味で、この作品は、行動する哲学者スイミーのビルドゥングスロマンとまでいってしまっても、いいぐらいかもしれません。私自身の以上のような、この解釈への注釈も少々付け加えましたが、そもそも面白い解釈ですよね。私自身は気づかない解釈だったので、とても興味深く思いました。
私は以上に挙げた二つの解釈(社会的解釈と個人的解釈)のいずれも、それぞれに正当性があると思います。より寓意的な感じのするのは、前者の解釈ですが、後者の解釈は、小説に近いものを感じ、興味深く思います。どちらも『スイミー』の抜き差しならない魅力に一役買っています。前者はああだこうだと裏の意味を考える楽しみを持たせてくれますし、後者は一続きの小説を読んだような読後の満足感を与えてくれます。なお、後者の解釈にさらに一歩踏み込んだ解釈では、黒いスイミーが目になることをことさら重視し、彼が芸術家であり、特殊な目を持った存在であるととらえ、人にはそれぞれ個性があるが、特殊な使命を帯びた人もいることを説いていると、考えるようです。作者レオ・レオニが誇り高い芸術家であったことを考えると、さもあらんと納得のいく解釈です。これもまた、大変寓意的で興味深い解釈ですね。こんなメッセージが裏に隠されていることを考えながら読むと、『スイミー』はますますおもしろく読めるに違いありません。
さらに突きつめた解釈について
私自身は、もう少し突っ込んで考えてみました。どちらの解釈がより有効かと考えるよりも、二つを融合してみてはどうかと。
私は、小さな魚の兄弟たちを主人公に考える社会派的な解釈の中で、特にリーダーとしてのスイミーという視点に焦点を当てて考えてみることにしました。優れたリーダーが率いるからこその社会運動という視点です。リーダーとなるスイミーがいたからこそ、運動は機能し、成功したのです。その意味で、スイミーはヒーローです。そして、そのヒーローを成り立たせているのが、ヒーロー誕生の前史としての海の底でのミラクルとの遭遇、啓示的冒険です。ここで啓示的な体験をし、回生するからこそ、ニューヒーロー・スイミーが誕生するのです。ここで、二つ目のスイミー個人の物語としての解釈との接合が起きます。この物語は、主人公スイミーの目覚めを描いたものであり、同時に、リーダーでありスイミーによる、ちいさな草の根運動の誕生を取り上げた物語なのです。
この結果、どうなるかというと、この物語は、単純にひ弱なスイミーが強くなっていく、弱い魚の兄弟たちが力を合わせてがんばる、というところに、感情移入できるような、等身大の登場人物たちの出てくる弱い物語ではなく、立派なヒーローの出てくる強い尊い話なり、感情移入はしにくくなります。ですが、このヒーローは、そもそも大きな、すなわち尊大なヒーローではないので、この物語は、副題ともなっている「ちいさな偉大さ」「ちいさなかしこさ」という、変わった形容を持つヒーロー像を打ち出した、新しい寓話物語となりえているのです。これは、ある意味で、一つの新しい読み方であり、『スイミー』の新たな魅力を引き出すものといえるのではないでしょうか。少なくともこうした読み方をしてみると、また『スイミー』が別の意味で輝きだすといえるでしょう。
それでは、以上のように敷衍した後で、最後に、『スイミー』の面白さについて、もう一度まとめてみましょう。
3.結語:弱者の奇跡の物語――『スイミー』の魅力――
最後に、総合的にみて、『スイミー』の素晴らしさとは何でしょうか。私は次の四点にまとめることができると考えました。
1)起承転結のはっきりした、伏線などもある、手に汗握るストーリー展開の妙です。以下、この点について、もう少し詳しく見てみましょう。
『スイミー』のあらすじをまとめると、次のように整理できます。
①平和なスイミーと兄弟たちの世界がまぐろによって荒らされる。
②スイミーは海の底で孤独だが奇跡的な体験をする。
③新しい仲間たちと出会い、問題克服の努力を重ねる。
④大きな魚を追い出した。
レオ・レオニが日本人ではないので、厳しい見方をすれば、起承転結というまとめ方自体変かもしれませんが、こと『スイミー』に関して言えば、このように見事に対応しているのです。少なくとも、転と結ははっきりしていて、見事な落ちがついているといっていいと思います。また、スイミーが「からすがいよりもまっくろ」で、という冒頭に張られた伏線が、「ぼくが目になろう」の部分で、見事に回収されているのが、なんとも見ごたえがあります。このように、『スイミー』は、短い中に、様々な要素の詰まった、そして、スピーディーな展開を見せる、読み物としても第一級の面白さを持つ、完成度の高い作品であるのです。
2)童話『スイミー』の作品世界を支える世界観についてです。スイミーの世界は、海の中で基本的に自然界なのですが、どこかしら人間界を思わせるところがあります。そして、人間界と同じで、基本的に平和なのですが、時に暴力にも見舞われます。弱い者は知恵と勇気を絞り、一致団結して立ち向かわねばなりません。それが特に『スイミー』の場合、弱い者が強い者に勝利するという「希望」が、寓意の段階であるとはいえ、示唆されています。まことに夢と希望にあふれた、調和的な世界なのです。結局、これが、この作品が特に子供たちの心を強くとらえてやまない最大の理由であると、私は思うのです。
これには、作者レオ・レオニの、戦時中の暗い記憶が影を落としていると思われます。ユダヤ系だったレオ・レオニは、第二次世界大戦開戦直前のファシスト政権成立とともに、イタリアからアメリカへ亡命を余儀なくされました。アメリカでイラストレーターとして名を上げ、一九五九年に絵本作家としてデビューした後、一九六〇年以降は、ふたたびイタリアに戻り、絵本を量産したのですが、この来歴がレオ・レオニの基本的な世界観に影響を与えていることは間違いないでしょう。暴力の席巻する弱肉強食の社会の中で、力を合わせて生き抜いていくことへの祈りに似た「希望」が、おそらくレオ・レオニの胸の内に強く息づいているのです。だからこそ、こうした『スイミー』のような、美しい祈りに似た世界がもたらされたのでしょう。
3)個性的で美しい文体と絵です。文体については、第一節でとりあげたとおりです。平易でリズミカルで詩的です。英語の原文のよさについては触れられませんでしたが、レオ・レオニの文章も、もともと美しい陰影に富んでいます。だからこそ、谷川俊太郎訳が光るわけです。そして、絵については、レオ・レオニが一流のイラストレーターであることはいうまでもありませんが、誰しも一見すれば、その素晴らしさには納得がいくことでしょう。ちなみに私自身は、「にじいろのゼリーのようなくらげ」のなんともいえない、余情にとんだ透明感あふれるグラデーションが大好きです。
4)第二節でふれましたが、その内容的な寓意の深さです。幾重にも入り混じった物語の要素が、様々な解釈を可能にし、読む者の知性・感性を刺激します。これは、大きくまとめると、ちいさな兄弟たちの物語か、スイミー自身の物語か、と二通りの解釈が可能です。他にもバリエーションはあるかもしれませんが、どちらをとるかは人それぞれでしょう。
加えて、私のように、リーダー・スイミーの目覚めと活躍の物語というとらえ方も可能です。これには賛否両論あるでしょう。お好きな解釈をなさってください。
以上、こうしたわけで、私は『スイミー』が、ことさらに優れた面白い作品であると考えます。短い中にはっきりした起承転結がありながら、単純な予定調和に終わらず、独特の作品世界を持つ『スイミー』。美しい音色を奏で、不思議なグラデーションを描いてくれます。様々な解釈も可能です。何度読んでも飽きないし、一度読んで忘れられない印象を残すのは、こうしたことが関係しているに違いありません。私はこの作品を、ひそかに「弱者の奇跡の物語」と呼びたいと思います。弱者が奇跡の体験によって回生する。そして、強く生き抜いていく。そこには己と世界を信じることが大切だと説かれているような気がするのです。
最後の最後に、英語の原文で”SEE”と”THINK”が大文字で表現されている箇所があり、レオ・レオニが芸術家としていかに哲学的に見ること、考えることを重視していたか、そして、この観点が唯一、谷川訳で抜け落ちていて、残念であるかということを指摘したいと思います。私は、芸術家はある意味で哲学者であり、見ることと考えることを弁証法的に積み重ねていくことで(註:これはある意味で、「異化」という前衛芸術の手法に近いと思われますが)、己としても成長し、また、社会に働きかけていくことが可能になると、レオ・レオニが考えていたと思います。己の成長と社会への働きかけの弁証法、すなわち、社会か己かという二つの概念を、一方だけに与することなく、ダイナミックにはしごする運動、としての芸術、というとらえ方は、今でも十分通用する考え方だと思うのです。「見る」と「考える」ですから、個人(己)の要素が強いのが、レオ・レオニの特徴といえるのかも知れませんが、『スイミー』の結末を見る限り、社会への還元の考え方も絶対にあるのです。その意味で、レオ・レオニはバランス感覚に優れた人だったのかもしれません。私は、第二次大戦後の世界最大の絵本作家の傑作が、二十一世紀の日本で読み継がれ続けることに、希望の光を見出したいと考えます。レオ・レオニが播いた、平和への希望の種を絶やすことがあってはならないのです。とはいっても、見る人の自由に、たのしく読んでもらえることこそが、作者の一番の願いかもしれませんが(笑)。
参考文献
1)松岡希代子『レオ・レオーニ:希望の絵本をつくる人』
*この本によると、『スイミー』は、レオ・レオニ自身がアメリカのマサーセッツ州の小さな島で休暇を取っているときに見た、魚たちの動きをもとにしているのだそうです。スイミーには芸術家としての自分を投影しているのだとか。
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