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大人の僕らにこそ、”対話”が必要な理由を真剣に考えた。

今こそ、対話が求められている。

きっかけは、Weekly Ochiaiの「こどもの教育格差と自己責任論」
教育関係の人にはぜひ、全編見て欲しいですし、そうでなくてもYoutubeから前半の30分だけでも見て欲しい。

本テーマは、鈴さんのnote『この割れ切った世界の片隅で』がきっかけで、鈴さんのnoteは2万以上のLikeがついている。

すごく大切な問題提起であり、この問題をこれだけ多くの人(80万人)に届けただけで、すごく価値のあるnoteだ。


Weekly Ochiaiでの受け答えもしっかりされていて、今後の活躍を応援したい。

本noteはYoutube動画、更に本番組内容をついて考察を加えていくので、まずは是非動画をチェックしてみて欲しい。

前日の夜にこの動画を見てから、ずっとグルグル考え続けている。
まとまりきれてないかもしれないが、落合陽一氏の述べる

「対話の重要性」

に、ついて本日は話したい。

■鈴さんのnoteがバズった理由

番組内では、
カミングアウト=自分が感じていた違和感を代弁してくれた。
ことが共感を呼んだという議論が展開される。

実際に、鈴さんのnoteコメントを読むと、

同じような境遇で育ってきた方への共感性、
首都圏で育ち“普通”を知らなかった方からの発見性。

主に、この2つが大きくバズった理由だと思われる。

それに対する落合陽一氏の問いは、かなり考えされる。

「フィクションの中では、良く語られている話。」

同じような教育格差を語るコンテンツは本、TV,ドラマで既にいくらでも語られている。
今までもそのようなコンテンツはあったし、いくらでも言語化されてきた。

であるならば、

同じような境遇で育ってきた方にとって、鈴さんnoteの内容は普通の事が普通に書かれているだけなのではないか。

だから、なぜそこまで共感を生み、バズるんだという落合氏の表現が、

「ねじれを感じる。」

という一言に凝縮されている。その違和感は、

「そのストーリーが横に共有されてないことに、すごく違和感を覚える。」

という言葉に通じる。

そのストーリーをお互いに言い合う。

つまり、対話をしてこなかった。

では、「なぜ、対話がされないのか。」

ここが、僕らが本質的に考えるべき論点。
と、僕は感じた。


🤔


■人は、なぜ対話をやめてしまうのか。

近頃、カミングアウトも大事だが、対話も大事だ。と、よく思う。

あらゆるSNSは、僕らのカミングアウト、発信を可能にしてきた。

一人の個人の発信が、社会を動かす時代になった。

一方で、

一人一人との対話は進まずに、分断が進んだ時代になった。

とも、思う。
Youtube,Twitter,IG,は個が輝くことを可能にしたが、人々の会話を醸成したりはしなかった。

鈴さんは、
「マジョリティーの普通が、コミュニティーの普通。」
普通に同化しようとして、自分の生い立ちや境遇を語ることを憚ってしまうと、述べていた。

落合氏としては、

県人会という場もあるし、東京に出てきた学生も決してマイノリティーじゃないから、地方の学生達がイメージする東京(都会)は、違う普通。

それに縛られた結果、対話することをやめてしまい、そのまま大人になっていく、社会の図式に落合氏は違和感を感じているのだと思う。

この後は、
ダイバーシティインクルッシブや、
共感性を持つリーダー

等が語られるが、僕の中には煮え切れない違和感が残った。いや、つまり

人が、自分の境遇や生い立ちを語らない、対話をしない。

その理由は、

本当に、普通に同化しようとするからなのか。

という疑問。

というのも、今「#人生を語る」という企画を始めて、皆さんの記事を読ませていただくと、自分の生い立ちを語られる方もいる。

*みなさん、参加ありがとうございます🙇‍♂️


是非、読者のみなさんに聞いてみたいのだが、

“普通に同化してきたから、生い立ちや境遇を語らなくなったのか”

と、問いかけてみた時に、Yes かNoか。

果たしてどうだろう。

少なくとも僕は、腹の底からYesとは言えない気がした。僕は、この点をすごく根深い問題だと思っていて、それよりも、


大人になることのバイアス。


の方が、大きいように感じている。

高校生の頃に人生を語りあった友人たちと、大人になった今になって、


“人生や自身の境遇について語り合う”

って、かなり難易度高い。
県人会をやったから、横に共有されるということでもないと思う。

そういった感覚が、大学生時代には芽生えてきてしまうから、人は対話をやめてしまう。

大人になったら人生や生い立ちを語っちゃいけないなんて誰も言ってないし、そんな常識もない。と、僕は感じている。

だけど、

Weekly Ochiaiの後半で、司会進行の佐々木氏が、松岡氏に対して、

「つまらなくなっちゃった。」

と、言った時に、社会の縮図を見たような気がした。

つまり、生い立ちや人生論なんて、超個人的な主張に、私は興味持ちません。と、言われてしまう恐怖感。

佐々木氏は、松岡氏が鈴さんだった場合でも、
「つまらなくなっちゃった。」
と、言うのだろうか。

失礼を承知で言えば、鈴さんのnoteを松岡氏、いや僕が執筆したとしたら、
「この割れ切った世界の片隅で。」
は、これほど多くの共感を呼んだろうか。


将来の夢、志、生き方、人生。

こどもなら、語ることは歓迎される。
では、
大人でも、語ることは歓迎されるのか。

僕は、そこに社会の変な空気感を感じてしまう。

その空気感は、僕ら大多数の大人を黙らせ、成功した大人だけを語らせる。

そんな社会を生み出してはないだろうか。


😔


■なぜ、対話を育むべきなのか。

結論、僕ら大人は、

もっと語って良いし、対話しても良い。

僕は、そう信じるし、それが社会を変える力になる。

下記の記事で記載した、アメリカの黒人差別問題。
シット・イン運動は、学生たちの対話から黒人だけでなく、白人も参加する運動になった。

キング牧師のようなリーダーも当然大事だが、実際に社会を変えてきたのは、

一人一人の学生であり、一人一人の人間である。

僕らは、キング牧師は知っているが、シット・イン運動の学生の名前を誰一人として知らない。

僕らは、ガンジーは知っているが、ガンジーと塩の大行進を歩んだインド人の名前を知らない。

でも、彼ら彼女らは、必ず対話をしてきたはずである。

「どうして、黒人は隔離されないといけないのか。」
「どうして、これほどイギリス人に虐げられないといけないのか。」

一人一人、一つ一つの対話が、社会を動かす原動力になる。

リーダーシップ、ダイバーシティインクルッシブ等、小難しい言葉が並ぶ。

それも必要。

ただ、僕は落合氏の意見に激しく共感する。

もっと自分の人生や生い立ちについて、対話できるようになる。

地方から出てきた学生の方がお互いの境遇について、対話できるようになる。


もっと、対話する。もっと、話す。


それだけで、僕らの社会は、もっと良い方向に進むはずだ。



ではでは、本日のnoteはここまでです。

また、明日のnoteでお逢いしましょう。


P.S:本日が企画「#人生を語る」の最終日ですね!参加いただいた方、本当にありがとうございます。明日、是非noteでの対話にトライさせてください!🤗


noteを通じてサポートし合えたら嬉しいです!!よろしければサポートお願いします!noteを通じて、少しでも良い人生、良い世界に。