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徒然草 其一〜対義語のあるところ〜

蝉の声も少なくなり、ふと過ぎる風に晩夏を感じることも増えました。
普段の記事も徒然なるままなのですが、なんのタイトルも思いつかないので、徒然草です。兼好法師に申しわけがありませんが、名前を拝借いたします。枕草子であるとか、徒然草であるとか、無名草子や御伽草子であるとか、古来の随筆や散文作品には、「草子」の名が多くつけられているように思われます。冊子(さくし)という一綴りの冊子から転じて草子と言うそうですが、なんだか草と言うあたりに雅がありますね。そして、子という漢字を使うあたりに何か文学に対する高尚さを窺わせます。ダイレクトに言わないこの奥ゆかしい感覚がとてもくすぐったくて好きです。

画像は本文と関係がありませんが、仮名序をなんとなく連想させるので。

さて、寝ようにも寝れずに、筆を走らせるわけですが、実際にはキーボードを押しています。
文字で見ると当たり前のことなんですが、こういう表現が好きです。
これを見てニヤッとした方があれば、あなたはきっと活字が好きです。

さて、心にうつりゆく由なしごとは、そこはかとなく、書き尽くられん、ということで、言葉にならないものも多くあるわけですが・・・。
今、ホントに今、ふと思ったので、書きますね。

「愛の反対は無関心」と言ったのは天声人語でしたでしょうか。青天の霹靂のようにハッとさせられたわけですが、国語という科目の問題では、愛の反対は憎しみというわけで、つまり、愛憎という言葉は対義の熟語だということですね。
改めて愛憎という言葉を見たときに思ったのです。愛憎は表裏ではないなぁ、と。何を言っているのやら、と思われる人もありましょう。
でも、思いませんか?愛憎は両方とも表だと。
愛しているから憎らしいこと、憎らしいけど愛していること、ありませんか?
はたまた、子どもの屈託のない笑顔というのは、憎らしいほど愛らしい、と思うのですが、愛憎が同じ面にありませんか?
と思うのです。
憎しみの対義語はなんでしょう!無関心、では芸がありません。でも、憎しみの反対は愛だと思います。なんだか、そんな色を持っていると思います。

戦争と平和の関係に似ていますね。
戦争が 廊下の奥に 立ってゐた 渡辺白泉
という句がありますが、平和からみると戦争はとてつもなく近い存在だと思いますが、戦争から平和は遠いような気がしてなりません。
では、戦争と平和という言葉はどちらが先にあったと思いますか?
答えは分かりませんが、私は戦争だと思います。
争いがあって初めて和やかさを自認するのですから。

これは唯名論と唯物論に近いような気がします。
私は両方の性質があると思いますが。(ヒトは唯物論でしょうが、“カーディガン”という羽織物の名称は唯名論ですね、人の名前に因んだものですから、きっと)

表裏一体の関係にあるはずなのに、その性質を持つのは一面だけだなんて、多面的な言葉の謎ですね。

ふぅ…一段落。
まぁた、書くことがふわふわとしてきたわけですが、また、古典の世界観に戻りますね。
今、ふわふわと、と申しましたが、結局は由なしごとが心にうつりゆくだけで、ものぐるおしくなるわけですから、ふわふわとして、定まらないんですね。
かの有名な方丈記にも、淀みの泡沫を語る一節がありますが、面白いですね。
結びついていると思うんです。いろは歌から奥の細道、ひいては写実派の文学にまで、人生や世の中の無常観が。そして、無常であることを心地よく思う心意気が。

なんでもかんでも0か100かしかないのは芸がないなぁと思いますが、人生は進むか進まないかの0か100かだと思うんです。人間として。
進むことは学ぶこと、成長すること。
進まないことは躊躇うこと、退化すること。だと思います。
私は、進む場面や局面、分野と進むことができない局面とを持ち合わせることで人間らしさが生まれると思いますが、進むことに生きた年数は関係ないと思うんです。戦国の世の下克上ではありませんが、良いものを生み出そうと進む過程において、老いも若きも関係がないと思うんです。一部の方々は快しとしないようですが。
一見進むことを選択したようでも、無意識のうちに進むことを躊躇うことってありますよね。自らもタメライを抱える一人ではありますが、この歩みというものには、熟考がいると思うんですね。人と議論すること、内在する自分に問いかけること、どちらもが必要だと思います。
内在する自分の暴走を理性で抑制するあまり、自分の2つの無意識に1つしか気づかない人もいますね。(気づいていないのか、気づいているけどあえてそうするのか、は分かり兼ねますが)
私はこの無意識のうちの一つを取り上げて自責の念を持つ人間がいつになったらもう一つに気づくのかと気が気でなりません。
かくいう私もきっと、1つにしか気づいていない、か1つも気づいていないかなんですが…。

今見えている2つの無意識は、別の無意識の片面同士かもしれません。

愛の反対が憎しみではなく、無関心であるように。

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