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でも、出すんやろ?

大学3年生の秋。

教育実習が終わり、私は教員採用試験に向けて勉強を始めていた。
自分で言うのも憚られるが、私はどちらかというと意識高い系。
朝から学生研究室で学校教育法とにらめっこ、午後は面接練習で試験官役の先生とにらめっこ。
教育実習が終わって遊び惚けている同級生を見かけては「教育なめんな」と心の中で叫ぶのが日常だった。


ある日。

いや、あれは11月11日だったはずだ。

遊び惚けていた同級生が「今日ポッキーの日だぜ、一応買っとくか」と私には理解しがたい会話をしながら大学を出ていく姿をすれ違いざまに見た記憶がある。

そんなバカたちを尻目に、私は紙にまとめた『面接で話す内容』を尊敬する教授に見せに行った。

研究室に入ってすぐに教授から「頑張っているね」と褒めてもらい、嬉しくなった。

同時に、「バカとは違うからね」と呟いた。
もちろん心の中で。


「コーヒー飲めるか?少しゆっくりしてから面接の話をしよう」
「はい、飲めます」

正直ブラックコーヒーは得意ではないが、そんなことはこの際どうでもいい。
私は教授と同じタイミングで同じ量をしっかり飲んだ。
「ん?」とコーヒーへの耐性を手に入れたと思ったが、次の瞬間苦さが口の中にじわーっと広がった。
私が眉間と唇を強く引き寄せた時、教授が私に質問した。


「君は先生になった時、宿題を子どもに出すか?」


苦さを早急に飲み込み、答えた。


「そうですね、学習習慣は大切だと思うので出すと思います。」


答えを聴いて「うーん」と背もたれに寄りかかり腕を組みながら教授は返した。


「宿題、好きだった?」


間髪入れずに「いいえ」と私は答えた。
この時、私は自分の発言の異常さに気付かずにいた。
教授はまた「うーん」と言いながら返した。


「でも、出すんやろ?」



私は、もう一度眉間と唇を強く引き寄せた。
答えられなかった。

え?
ん?

と、会話を整理した後、抽象的な問いが私の頭を駆け巡った。

子どものためってなんだ?
教育ってなんだ?
宿題って何のためにあるの?

それと同時に気付いた。


「あれ、教育のこと何も話せない…」


自分の無力さを一瞬で感じながら、教授の返しをしばらく待っていた。
「あ、俺が質問されているのか」と気付いたときには教授が話し出していた。


「教育を考える上で、絶対に自分の過去は忘れちゃいけない。それを忘れるから先生は平気で宿題を出すし、勉強しろと平気で押し付けるんだよな。」
と何かを頭上に浮かべるように言った。


もうお手上げだ。


私はn回頷き、ブラックコーヒーをすすりながら平常心を保とうと必死になった。
すすりながら視界に入った膨大な量の書籍を目にして、また平常心を保とうと必死になる。

ブラックコーヒーの攻略法を見つけた瞬間だったのでは?
と今になって思う。

教授が話し始めた。


「さあ、その点についてはこれからしっかり考えるとして、面接の内容を見せてくれるか?」

ちょっと待ってくれ。
恥ずかしすぎる。
見せられない。

「いや、はい。えっと、どこだっけな」とバカな演技をしながらカバンを漁った。
確実に昨日完成させた紙は視界に入ったが、それを無視して顔を上げる。
「すみません、忘れてしまいました、すみません」と笑いながら乗り切ろうとした。

「なんだそれ、しっかりしろよー。次、俺講義だけどどうする?」
教授は一緒に笑ってくれた。
その上、助け船まで出してくれた。

「すみませんが、また空いている時間に見ていただいてもいいですか?」
「分かった。じゃあ、明後日の3コマ目か4コマ目なら大丈夫だけどどうする?」
「じゃあ、4コマ目にお願いします。」
「はい、了解」

「ありがとうございました」と深々とお辞儀をして私は研究室を出た。
そして、数歩進んで大きく息を吐いた。
よく分からなかったが、とにかくやばいと思った。
私は何故か行きつけのカフェに行き、スマホゲームをしてから19時半には眠りについた。



現在、私は教育者として日々子どもたちと共にいる。

相も変わらず適当に教育職に就いている人には「教育なめんな」と心の中で叫びながら過ごす毎日だ。
「頑張っているね」と褒められることは多いが、素直に受け取れないことの方が多い。



宿題の大切さを子どもに語っている『今の自分』を信じてはいけない。




今日もブラックコーヒーを傍に置き、眉間と唇を強く引き寄せる。

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