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わたし、コミュ障なんです~いやいや、それはね‥‥!

高校生と
1対1で向き合ったとき、
よくこぼす悩み相談の
断トツ 第1位は、

「わたし、コミュ障だから・・」
「わたし、ホントは陰キャなんで・・」

です。

あくまで枝瀬統計なので、
世間一般の高校生すべてが、
自分のコミュニケーションに悩んでいたり、
実は内向的な自分をさらけ出せなくて
困っているかどうか、
それはわかりません。

でも、少なくとも
僕の高校教師生活15年の中では、
実は、わたし、
コミュニケーションに悩みを抱えていて・・・
というケースが実に多い。

特にコロナ禍を経て
コミュニケーションの悩みが、
加速した気がします。

僕が初担任をして卒業させた生徒たちは、
もうすぐ30歳になりますから、
今の中高生から、
いわゆるZ世代の若者たちは、
有形無形、
なんらかのコミュニケーション障害を
自覚しているんじゃないでしょうか。

そして、そういう悩みを吐露してくれた
生徒に対して、
僕も答えるのです。

先生(枝瀬)も、

コミュ障だし、めちゃめちゃ陰キャだよ、

と。

すると、決まって、
うっそだーー!!!!
というリアクションをされるのですが、
ホントです。

ずっと、
人と人とのコミュニケーションに
悩み苦しみもがき、
人生の時間の大半を、
それに費やしてきました。

コミュ障を自覚したのは、
高校1年生くらいからだったと思います。
大学生でそれが加速しましたね。

なにかのきっかけで
仲良くなったり
親密になれたのなら大丈夫なんです。

でも、そんな関係になれる人はごくわずか。

全くの初対面、
あるいはそれほど会話を交わしていない仲だと
何を、どう話していいか皆目検討がつきません。

目もしどろもどろになるし、

今日はいい天気ですね、
・・・そうですね・・・、

で言葉のキャッチボールが終了してしまいます。

特に高校生のころは、
女の子を名前で呼べませんでした。
「ヤマダさん」って言えないんです(苦笑)

いつも、
名前を呼ばないで済むような
会話をしていました。
(今、思えば、それはそれで器用な気がします)

卒業になって、
ある女の子から
「わたしは、枝瀬くんから一度も名前を呼ばれたことがない」
と色紙に書かれたこともあります。

まあ、もちろん、
人並みのコミュニケーションは
できていましたから、
コミュ障というのは、
完全に「主観」の問題です。
僕の中では、
僕はコンプレックスのかたまりであり、
人と自然体では会話できない、
という宿命を背負った気でいたのです。

この「主観」てヤツが曲者でして・・・、

僕に悩みを打ち明けてくる高校生も
ウッソだーー!!!!
と言いたくなるほど、
特にコミュニケーション能力に
見劣りがあるわけではないのですよね。

高校風の言い方をするなら、
全然フツーです。

だって、僕と話せてますから。
悩みを打ち明けられていますから。

さて、どうしたものでしょう??

この問題は、
かなり多くの重大なテーマをはらんでいて、
一回のコラムで扱いきれないほどの
視点が存在していると思います。

これから書く内容は、
その数ある中の、
あくまで、一つの切り口という程度で、
読んでいただけたら幸いです。

中高生が
コミュニケーションで悩んでいる現象の大半は、

気のせい

です。

僕はコミュニケーション障害なんじゃないか?
僕は人と話せないんじゃないか?

高校生が、上記の悩みを言ってきたら、

それは「気のせい」だよ、と思ってます
(もちろん、それを直接本人に伝えるわけでありません)

以下、僕の心の言葉。
 ↓ ↓ ↓

君が思っていることは、
客観的事実ではないよね。
あなたの「主観」。

そもそも、

コミュニケーション障害っていうのは、
なにが、どう障害なんだろうか?

人と話せないって思っているけど、
話せているよね(僕と)。

自分の悩みを

「コミュニケーション」が
「うまくいっていない」

って、かなり画素数荒く、
解像度低めに捉えているがために、
悩みが悩みのまま、ストップしているんだよ。

そもそも、
「コミュニケーション」の概念が表す範囲は、
相当に広大でさ、

単に会話のキャッチボールをすることなのか?
深いところで共感や理解をしあいたいのか?
自分のディープな内面(個性)を出す勇気がないのか?
友達がほしいのか?
彼氏彼女がほしいのか?
コミュニケーションの対象は
他人とは限らないよね。
自分とのコミュニケーションっていう要素も
あるよ。

そして、
「うまくいっていない」ってなんだろう?

君はどうしたいの?
どうなりたいの?

それはホントに?
心から望んでいること??

↑ ↑ ↑

現代人は、
身体と、頭の発達があまりにもアンバランスになってしまいました。

身体(本能)は、
何百万年もかけてじっくり作られた
高感度のセンサーみたいなもの。
この本能に従っていれば、
「生きていく」ことはそう難儀ではない。
だって、
本能は「生きるため」に
あらかじめ備わっているのですから。

だから、ホントは
なーーーんも考えずに、
感情の赴くままが一番ラクで楽しいんですよ。
だってイヤなことは本能が避けようとしますから。「心のままに」生きられたらどんなにいいか。

でも、そうはできない社会だから苦しむのです。
学校は「本能」を否定するシステムですからね、
基本。

繰り返します。
現代人が
これほど「生きづらさ」を抱えているのは、
本能を無視して、
頭ばかり働かせているからです。

上手にコミュニケーションしなければならない
わたしはコミュ障なんだ

という思い込み(情報)が強すぎると、
私たちの本来備わったセンサーを
錆びさせてしまうのです。
生きる力が衰弱してしまうのです。

SNSをはじめとする
情報過多社会を生き抜く若者は、

「気のせい」という
主観的思い込みを
絶えずアップデートする宿命がある

と思っています。

自分の認識の画素数を高め、
解像度を鮮明にしなければいけません。

〜コミュ障だから〜

という薄ぼんやりした悩みに
とどまっていると
一向に問題を解決させることは
できないでしょう。
センサーはにぶり、
身体は重く鈍くなる一方です。

そうなる前に、
認識を建設的な方向に変えて、、
ご機嫌に、ルンルンになれるといいですね。

実は、それも

気のせい

なのですが(苦笑)。

ハッピーになれるのも
苦悩に満ち満ちるのも
「気のせい」なのなら、
幸福になれるための
思い込みを強化していきたいものですね。

先述しましたが、
コミュニケーションに関する悩みは
多くの視点、切り口が存在します。
また機会があれば書かせてください。

最後までお読みいただきありがとうございます。
これを読んでくださったあなたの少しでもお役に立てたら嬉しいです。

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