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「おくのほそ道」は逆無常観である~中学生の気づきと言霊のパワーについて

授業中、
生徒からの発言によって、
思わぬ発見が生まれ、
教室全体が歓喜に包まれるときがあります。

中でも忘れられないのは、
松尾芭蕉「おくのほそ道」の授業で、
ある生徒が

逆無常観だ!!

と発言したとき。

その捉え方に、
ものすごく感動したので、
少し説明させてください。

そもそも
中学の国語の授業で
古典を扱うと
「無常観」という言葉が
定番キーワードとして登場します。

「平家物語」「徒然草」「方丈記」・・・
「源氏物語」だって無常観です。

通底するのは
「栄えたものもいつか滅びる」
というイメージ。

プレイボーイとして女性をはべらせ、
栄華をきわめた光源氏でさえ、
晩年はさびしく孤独のうちに
姿を消してしまいます。

もちろん、芭蕉「おくのほそ道」も
テーマは「無常観」

人はいつか亡くなる。
人生は旅であり、
旅は無常の象徴である、
と思い込んでいました。

ところが!

ある中学生が言うのです。
芭蕉の精神は「逆無常観」である、と。

たとえば、

草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家

という句が冒頭にあります。

これは東北の旅を企図して、
江戸にある自分の家を売り払う
(ほど今回の旅に、覚悟をもっていた)
ときに、芭蕉が詠んだ句で、

自分の家はやがて壊されてなくなるだろう。
でも、そのあとは、
雛人形を飾るような豪華な家が
建つかもしれない。
小さい女の子がいる
華やかでにぎやかな家族が
過ごすようになるかもしれない。

そんな内容です。

この句を説明したときに
生徒が「逆無常観だ!」と気づきました。

生徒曰く、

自分はいなくなるかもしれない。
万物は常に移り変わっていくのかもしれない。

でも、自分がいなくなっても、
次なる世代は
明るく華やかなものが誕生するだろう。

そんな前向きな気持ちが、この句にはある、

と。

なんという感受性!
なんという理解度!!

なるほど、この句には、
これからの東北の旅に向けた
期待や希望も含まれているのでしょう。

無常観とは、

万物は、やがて滅びる

だと思い込んでいました。

しかし、芭蕉の逆無常観は、

滅びたあと、やがて生まれる

なのですね。

それを理解したとき、
さらに芭蕉の魅力がわかった気がしました。

そして、言葉の定義が変わると、
自分の感覚まで大きく変容させられることに
感動し、改めて「言葉」はすごいと感じ入ってしまった次第です。

古典を教えていると、
これぞ、情報コンテンツの先達だ、
と思わされます。

たかが言葉に
(あえて「たかが」とつけています)
作り手の「ソウル(魂)」が宿っていて、
それが時空を超えて読む人の心を
震わせているのです。

芭蕉の文章を読んで、
自分も旅に出てみようと思う人が
彼の死後300年以上絶えないのって
考えてみたらスゴいことですよね。
(僕も山寺や平泉、象潟行きました)

彼の言霊は、
今なお、読み手を行動に駆り立てるほどの
影響力を有しているのです。

chatGPTをはじめとするAIが
台頭している昨今ですが、
それは「流行」の部分。
「無常」に類するものに過ぎません。

着目すべきは「不易」です。

決して失わないであろう
人間の本質的な性質の一つは、

言葉をはじめとする万物に強烈に感情を宿らせることができること。

そして万物に宿っている、人の感情を感じ取ることができること。

この2点が、
人間の人間たるゆえん。

キーワードは「感じる」ですね。

光源氏や松尾芭蕉のように、
よく泣き、よく笑い、
人生を味わい尽くしていきたいものです。

最後までお読みいただきありがとうございました。これを読んでくださったあなたの少しでもお役に立ちますように。

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