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被害者意識の強い世の中

高校教師の枝瀬です。
主に、
教育、心理、コミュニケーションや自己啓発、
日々の気づきを発信しています。

この記事を書いているのは
2月4日。
暦の上での「立春」です。

音なしに春こそ来たれ梅一つ

黒柳召波

ドライブしている窓際から
梅の花を見ました。
音も予兆も感じなかったけれど、
なんとなく「もうすぐ春だなあ」と感じた一瞬。

ほんのちょっとの気づきだけど、
そんな些細な喜びを
感じ続けていきたいです。

この記事も
読んでくださった方に元気を与え、
行動や気づきが得られる
きっかけになれたらいいなと考えています。
どうぞ最後までお付き合いください。


「いじめ」が増えている??

先日、学校に
教育委員会の方がいらっしゃって
「いじめ」に関する興味深い話をされました。

みなさんは、
法律的に「いじめ」がどう定義されているか
ご存知ですか??

「いじめ」とは、児童等に対して、
当該児童等が在籍する学校に在籍している等
当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為
(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。

『いじめ防止対策推進法』第二条(定義)

条文だと、表現が固くなってしまいますが、

僕の所属する地方自治体では、
「児童等が心身の苦痛を感じている」なら、
それは「いじめ」として認知することに
なっています。

「これはイヤだな、不快だな」と
先生に訴えたら、その時点で「いじめ」です。

客観性は問われません。
学校は、当該生徒の「主観」にもとづく
心身の苦痛を最大限、尊重する
ということです。

その結果、どうなったか?
まず、「いじめ」の認知件数が増大しました。
5年前から過去最高を更新し続けています。

この傾向を
教育委員会の方は
「よい傾向」と分析します。

それは
「先生方が『いじめ』の定義を正しく理解し、
 積極的に、かつ細やかに
 普段から生徒を観察している証拠だ」
と言うのです。

確かに、
「いじめ」は、かつて、
被害者の方が相談しにくい、
という傾向が強くありました。

いじめの被害者は、
被害に遭っているという事実そのものに
罪悪感を抱いてしまいがちです。
そうなると、誰にも相談できず、
先生や保護者も気づかず、
問題がますます深刻化するケースがありました。

それに比べたら、
「いじめ」を初期の軽微な状態の時点で、
積極的に認知し、
大人の目で注意深く経過観察していこうとする
方針は確かに安心で安全です。

教育委員会の方は次のようにも語りました。

「学校の『いじめ』の認知の仕方は
 社会の先取りをしています。
 たとえば、『ジャニーズ』の性加害の問題は
 被害者の声が多数挙がっていたにも関わらず、
 長い間、黙殺されていました。
 認知されなかったのです。
 でも、あの事件は学校に置き換えるなら、
 明確に『いじめ』として認知されるべき
 事柄だったのです。」

だから、我々職員は
もっともっと「いじめの認知」を
積極的に行っていこうという研修内容でした。

みんな被害者になってゆく

教育委員会の方の説明は
一定の妥当性のある内容でした。
首をかしげるようなところは何もなかった。

しかし、その後、
たとえば、
どのような「いじめ」が学校で起きたか??

ケース①
休み時間、男子生徒数名が集団で騒いでいる。
ある男子生徒が「おなら」をしたので、
みんなでケラケラ笑っていた。
その笑いが不快だと言って
女子生徒が訴えた。
  ⇒「いじめ」として認知になった。

ケース②
男子生徒が、ある女子生徒Aの頭を
ポンポンと叩いているところを、
(その男子生徒と交際している)
女子生徒Bが目撃した。
女子生徒Bは怒って、女子生徒Aの悪口を
SNS上でつぶやく
 ⇒女子生徒Aが被害を訴え「いじめ」認知

ケース①も②も
僕の勤務する学校で起きたことです。

どちらも特徴的だったのが
被害者の保護者が感情的になり、
(加害生徒に)「謝罪」を
強く要求したことです。

僕は当該生徒の担任ではないので
先生方の対応を傍観しつつ、
話を聴くことしかできなかったのですが、

「謝罪」を強く要求されることで
逆に(加害者側とされた)生徒・保護者も
ヒートアップしてしまい、
「そんなことで『いじめの加害者』に
 されるのはおかしい!
 こちらも被害者だ」と主張。
結果的に、トラブルが大きくなったようです。

対応される先生方も
夜遅くまで保護者の話に耳を傾けて
疲弊していました。

「いじめ」を早期発見し、
適切に対応することが
「いじめ防止対策推進法」の
目的だったはずなのに、

昨今、「被害者意識」が拡大しすぎて、
人間関係を破壊するケースが増えているように
危惧しています。

大人はどう振る舞えばいいのだろう?

もちろん、重篤な「いじめ」は許されません。
毅然と対応すべき案件でしょう。

ただ、今回挙げた事例は、

「おなら」をして笑ったこと
男子生徒にポンポン頭を叩かれたこと


「いじめ」として
厳しく糾弾されています。
学校現場は少なからず戸惑いと混乱があります。

昨今、
芸能ニュースでも
加害と被害の報道がかまびすしく 
聴かれるようになっていて、

事実の是非はともかく、
起こっている現象は、
僕たちの職場と無関係に思えません。

明らかに時代が変わる潮目にきています。

「いじめ」件数が増えて、
みんなが「被害」を訴えるような現象に対し、
我々、大人はどうふるまえばよいのでしょうか?

僕は、
「聴くこと」にもっともっと価値を置き、
「聴く」スキルを磨きたい
、と考えます。

特に意識したいのは
「気持ち」を聴く、です。

苦痛を訴えた人の痛みを、聴く。
苦痛を訴えられた人の苦しみを、聴く。

決して拡大解釈しないこと。
それはつまり、
「1」の痛みを、
不必要に「10」や「100」に
拡大させないことです。

たとえば、転んで泣いている子どもに対して
「おーー、よしよし、痛かったねえ」という
声かけは控えましょう。
その子は「痛み」を拡大して感じてしまいます。
基本、何も言わなくていい。
「転んだんだね。血が出たね」程度の声かけで
十分です。

肯定も否定もせず、
「いじめ」の関係者たちの気持ちを、
そのまま聴き続ける態度。

「1」なら「1」
「10」なら「10」
それ以上でも、それ以下でもなく、
その人の気持ちを、そのまま受け止める。
これは、
(やってもらった人ならわかると思いますが)
癒しになりえます。

※ただし、これをやるためには
 教員にもっともっと「時間的ゆとり」が
 必要です。


昨今の風潮に僕が強く違和感を覚えるのは
週刊誌やTV,ネットをはじめとする
メディア媒体が、
かなり歪んだ色メガネをつけさせようと
していることです。

これは徹底して警戒する必要があります。
メディアの報道を鵜呑みにすると
我々の認知はいともたやすく歪んでしまう。

同時に、子どもたちが安易にSNSを扱うと、
歪んだ認知を増加させる恐ろしい装置になると
いう指導が生徒、保護者ともに必要です。

「1」が
「10」にも「100」にもなるから、
ややこしいのです。

(被害側には)「痛みを感じたんだね」
(加害側には)「痛みを感じさせたんだよ」
(双方に)「じゃあ、どうする?」
とは、サクッといかない子どもたちと保護者。

この問題は
まだまだ容易に解決はできないでしょう。
でも、この課題の中にこそ
我々、大人が変わるべきヒントがあると
思っています。

まとめと補足


今回の記事は、
「いじめ」の認知に関わる
時代の変化と、学校現場の戸惑いについて
思うところを書きました。

率直に言って、
最近、怒っている人が多いです。
被害者意識の強い人が増えているような
気がします。

それはたぶん、「寂しい」という感情が
根にあるのではないでしょうか?
もう一つは「余裕・ゆとり」のなさですね。
(仮説です)

人と人が、きちんとつながってさえいえば、
ある程度「負の感情」の処理って
できる気がするのですが・・・。

また、気づきがあればシェアします。
これを読んで、ご意見や質問があれば
ぜひ、積極的にコメントしていただきたいです。
現在進行形で学校が抱えている問題の一つです。

最後までお読みいただきありがとうございます。
これを読んでくださったあなたの
少しでもお役に立てたら嬉しいです。

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