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第5話 羊の街

 犬は人間の友だちだっていうけれど、あの街では羊が親友だった。私がホームステイでお世話になったお宅で飼われてたのも、もちろん羊だった。空港の到着ロビーまで迎えに来てくれた、まだ名前の発音も覚束ないようなホストマザーの後ろをさ、ベージュの巻き毛のなかに真っ黒い顔が突き出した羊が、とことこ追いかけて来ててね。そりゃ予備知識としては知っていたことだけど、でも異様だなって思っちゃったよね。そのあたりで見かける犬なんかよりは、そりゃだいぶ大きいし、ぱっと見では無表情だし。でも慣れるまではあっという間だったな。羊には肉食獣のキバとかツメとかみたいな脅威がないし、よくシツケられてて、しかも優しかったから。
 洗いたての羊って、ふわふわでさ。最高だったな。ホストファミリーの家では、月に2回くらいのペースで洗ってたっけ。よくハンドリングされてるからか、それとも羊ってそういう生き物なのかは知らないけど、ドライヤーで乾かしながらブラッシングしてあげると、途中で眠り込んじゃったりするの。かわいかったな。
 犬を散歩させるみたいに、羊の散歩をする人もいたけど、放牧場に預けちゃうのが一般だったから、あんまり道を歩いてる羊は見なかったかな。あの街は仕事とか学校とかで忙しくしてる人の多い、わりと人生がせわしない感じの場所だったから、犬より羊の方が住人のライフスタイルにマッチしてるんだろうね。朝、放牧場に連れて行ったら、あとは夜まで羊飼いさんと牧羊犬が面倒を見てくれるし、あとは連れて帰っていい子いい子してあげるだけ。家で愛羊をもふもふしながら、その日あったことを聴いてもらうのがさ、これがいいんだよね。羊って聴き上手なの。存在が柔らかくて、相づちはハッキリしてて、それに大きくて温かい。
 いい街ではあったんだけど、やっぱり留学って疲れるものでしょ。勉強中の言葉じゃ、授業は半分も理解できないっていうか、むしろ五割も理解できてたら上出来だよね。でも払ってる授業料は十割だし、それどころか渡航費や滞在費や、事前準備に費やしたお金と時間と、擦り減っていく神経のチリチリした痛みみたいなものを思っちゃうと、十五割くらいは得るものが欲しくなっちゃうでしょ。卑しい人間なんだもん、仕方ないよ。留学っていうものを、骨までしゃぶり尽くす実力が足りないってことに諦めがつくまで、文字通りに毎晩泣いてた。泣いてる時、羊がいっしょにいてくれてよかった。
 市街地のなかに放牧場があるから、街は緑にあふれてた。私の通ってた学校の足元にも、ひとつあったの。小さいけど、小さいなりに受け入れ頭数を少なくしてたみたいで、ゆったりした感じだった。それでね、いろいろあって苛立っちゃって、頭が煮えてどうしようもなくなったら、息を止めて窓辺に行くことにしてたの。すると、ビルの隙間にグリーンの牧草が見えて、その上にふわふわの羊が群れてるってわけ。ふわふわの羊がいるところで、誰かをぶん殴るわけにはいかないし、空を見上げたら白い雲もふわふわだし、あとは帰りにコットンキャンディでも買おうかなって思いつけたら、大抵のことは我慢ができた。
 いつか向こうに移住できたらなって、今でも思うなぁ。それで、私も自分の羊を飼いたい。できたらホストファミリーと同じ羊飼いさんに預けて、同じ群れで遊ばせてあげたい。私がせっせと働いてるあいだ、健康的な牧草のうえで、私の心といっしょに温かい風に吹かれてくれる羊がいて、夜になったらそのふわふわに染み込んだお日さまの匂いを感じながら、温かくて大きな身体を抱きしめて、楽しい話をするの。それってすごくいいと思うでしょ。

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