見出し画像

学生から社会人に、そして社会人から無職に、それから新しい進路を掴んだ2021年。(大学生必見?)

 あまり長い文章を書くほどの知的持久力が今現在の私にはないので、おそらく手短なエッセイとして本稿は締め括られると思う。
 
 タイトルに沿って話を進めるが、私は3月に大学を卒業し、4月から従業員4000人を越える某有名企業傘下の会社に入社した。
 それから、10月までの約半年間は丁寧な研修を受けた。そうして少しずつ企業人間へと改造されていった。
 社会人としてのマナー研修にはじまり、会社についての基礎知識を学ぶグループ合同研修は、時代らしくズームを介して行われた。
 それから、技術研修は研修場のみならず現場でも行われ、着々とその企業の人材として育った。
 半年間は、ホテル生活で、3つのホテルとレオパレス21での寝食を経験した。
 私は、悲しいかな、失礼かな、なんと企業としてはこれからの人材を育成するために、半年間のうち半分程度の期間で、その宿泊費と食費を負担してくれたのに、私はその半年間を終えて辞職をしたのであった。
 理由は、「職域が私に全く合わなかったから」であり、このうちの大部分が、私の努力不足もあり「入社前にわからなかった」要素であった。
 細かいことは省略するが、この配属決定に関しては少なからず同情してくださる方がいた。
 さてさて、色々そこにはあるわけだが、10月1日をもって「ファーストキャリア」に終止符を打った私だった。
 それから、恵まれたことに実家という帰れる場所があったので帰り、ぼちぼち再就職活動を開始した。
 とある就職エージェントは、私は就職市場的な定義付けによれば「第二新卒」だから「既卒」ではないと「ご親切に」アドバイスしてくださった。しかし、結果的に私は21卒である中で、マイナビ2022を窓口に新たな職をつかみ取ったのである。
 某有名金融機関も、「既卒可能」としながら、電話で人事の方に確認を取ると、半年のキャリアを有する私もエントリーして良いとのことだったし、他にも同様のケースがあった。「既卒」にもぐりこめる私のような「第二新卒もどき」は少なからずいるだろう。そのような方々に向けては、「既卒」の二文字を恐れずにチャレンジしてもらいたい。
 さらに、マイナビでは既卒としながらも、その企業のホームページの募集要項をよくよく見ると
「年齢を重視する」求人もある。つまり、「就業経験の有無を問わない」ことがあるのだ。表向きでは「新卒&既卒」への求人でありながら、本当のところは、「新卒&大卒の若い人」という求人ということがあるのだ。
 なので、例えば1年未満の「キャリアと言えないキャリア」をコンプレックスに、既卒と第二新卒の狭間で揺れる方は、どうか可能性を捨てないでチャレンジして欲しい。
 
 さて、10月1日に就活生へと舞い戻った私は、家族や市の若者向け就活サポート窓口の支援により、なんとか気をやむことなく、時に活発に時にゆるゆると動き続け(頭しか動いてないこともあった)、12月18日に、11月上旬から選考を受けていた志望度合いの高い企業から内定通知を頂き、私の2度目の就職活動は幕を閉じたのであった。
 
 就活という世界には、キャリアアップやキャリアダウンという言葉があるが、私のこの度のいわゆる転職は、そのどちらでもない。あえて再チャレンジ成功とでも言っておこう。私の能力や気質がより良く活かせる場所への切符を掴めたと現時点では思っている。
 
 この度の就活では、「あるものを存分に活かす」がテーマの1つだった。新卒時に大切にした軸と、それから培ったわずかな社会人経験において、どのような知識や技能、そして「当事者意識」を持てたのか。これを活かすことで、私はキャリア人材や22卒の学生と対等以上に闘おうとしたのである。あるものを活かすことは、合理的な行動原理である。しかし、それにはマイナスな面もある。「可能性(視野)が狭まる」ことがあるのだ。そこには注意したい。

 さてさて、私は学生でもない「単なる無職」の2ヶ月半ほどを人生で初めて経験したわけだが、時に自尊心は風前の灯だった。新たな就職先の人事の方にも、「職がないというのは精神衛生上良くないですよね。」と、彼自身も同じ経験があるからこそ私に投げ掛けて下さった。ただ、職がないこと自体は何の悪でもないことはここで確認しておく。ただ、職があった者から、職がなくなり、周囲のほとんどが労働者であり、なおかつ「そういう価値観」の人が、精神を悪くするということである。私は、紛れもなく「そういう価値観の人」だった。
  
 職が決まるということは、一応「このさき数十年の所得」を得る可能性が高まったということである。そして、そのことのみならず「社会との接点を強く持ちながら、社会へ自らの知力と体力をもってして利益を与え、社会から利益を与えられながら生きる切符を得た」ということでもある。
 さらには、非常にエネルギーを使う生き方である一方で、哲学者ラッセルが言うところの「怠惰への解決策」でもあると思う。これは言い換えれば「社会人として認められ、生きていく権利を得た」ということである。こう書くと、危険な「働かざる者食うべからず」的な思想を連想してしまう人がいるかもしれないが、それは違う。
 ここでの社会人というのは、働き、税金を納め、多くの人に「そういう人」と認識されるということ以上でも以下でもない。それ以外の分類に入る人々は、人々なりの生き方があり、尊厳も自由も与えられるべきだと思う。ただ、悲しいかな、そういう人々への世間の風当たりは強い。
 「マジョリティに属する時こそ、マイノリティへの想像力を働かせねばならない」という私の信条は、今後も大切にしたいものである。さて、捕捉はこのくらいにして、そろそろ文章を締めにいきたい。

 このエッセイを読むあなたを一応、私の人生の後輩であると仮定する。さて、いまこの瞬間から先をどうするかは自由であるが、多くの人は社会人として働き、100年時代を生きていくことになる。あなたは、かけがえのない若さを活かして何をするだろう。就活という未知のゲームを前にして不安と期待があると思う。不安しかない人もいると思う。ただ、どうせ人生には同じ確率で良いことや悪いことが存在し、その分量も大体同じくらいになるのだとしたら、少しくらい期待を多めに抱いて欲しい。どう足掻いても、そのうち自信を打ち砕かれるし、孤独な夜が数えきれないほど来るだろう。だったら、今この瞬間から先へは前向きに向かっていってもらいたい。
 そして、具体的な行動としてあなたは自らの価値観を、あたかも鉄を鍛えるように作り上げるために、多様な書物を読み漁り、そこで得た知見や疑問を積極的に形にし、発信して欲しいと思う。そうしてこそ、あらゆる事柄に惑わされずに力強く前に進める。インテリや権力者に富が集まる現代社会だからこそ、彼らに騙されない教養を身に付けて欲しい。
 「本を読み、疑問を持つ、意見を持つ、そして価値観という鉄を鍛練する」。これこそ、「学生の本分であり、この同心円上に就活が存在しているに過ぎない。」そう思う。就活は、言葉を駆使したゲームなのだから、その言葉の発信源となる価値観を鍛え、磨きあげることは当然、ことを有利に進めることに繋がる。

 私は今回の就活も読書経験を1つの武器として闘い抜いた。

 皆さんの健闘を祈る。
 

 
 

 
 
 

この記事が参加している募集

就活体験記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?