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3. Osteria la Cicerchia シェフ・連久美子さん(1/3) “料理とイタリア”  現地へ渡った料理人のちいさな20の物語


 イタリアは中部のマルケ州に、訪れたことがあるだろうか? アドリア海に面した沿岸地域と、中世の街並みが残る旧市街が丘の上に広がる丘陵地帯からなるこの州は、日本では未だにあまりよく知られていないが、興味深い魅力を持った州だ。芸術面でいえば、ルネッサンス期の画家・ラファエロが生まれた街として有名なウルビーノがあり、その街並みは世界遺産へ登録されている。夏には、マチェラータやペーザロで音楽祭が行われ、日本で広くは知られていないながらも、イタリアの文化・芸術面としての顔も併せ持つ。

 マルケ州は私にとっても思い入れのある州だ。2011年に初めてマルケ州へ行き、中心地である旧市街を2時間でぐるっと回れてしまうような小さな町・ウルバニアに着いた。語学学校へ1ヶ月通ったのが、その町との出会いだった。鉄道が通るペーザロから1時間30分ほど車を走らせ、ようやく町に到着する。くねる山道に車酔いしながら、その遠さと景色に、東京育ちの私は少し愕然とした。
 当時英語を話す人がほとんどいなかったウルバニアへ、イタリア語があまりわからないまま、深く考えずに飛び込んだ。すると初日から、自分の甘さにハッとさせられた。ローマのような都会とは違って、13時を過ぎれば夕方17時頃まで店が一斉に閉まったのだ。広場にも誰も人がいない。2月の寒空の下歩き続けても、たどり着く場所がない。そもそも通りを人が歩いていない。「シエスタ(昼寝の習慣)ってまだあるんだ……」という驚きとともに、やることが見つからず行き場を失ったような寂しさがあった。「何でこの町に来てしまったんだろう」そんな風に、自分に疑問を投げかける初日だった。でも、その気持ちは数日で次第に変化していった。とにかく人のいる場に出てみようと、BAR(バール)に行ったり散歩をするうちに、普段あまり見ない日本人に興味を持った人々が、自然と話しかけてくるようになった。BARで私を見かければ、「何をしているの?」「今までイタリアで行った場所は?」そんな風に、町の人が話しかけてくれる。気づけば、なんとなく顔見知りになった。好奇心とともに様子を見ながら受け入れてくれる彼らに、私はすっかり親しみを感じ、少しだけ町に馴染んでいった。

 日本に帰国して、ウルバニアはもちろんだが、マルケ州を知る日本人に出会う機会はほとんどなかった。私の感じた空気や体験に共感してくれる人、共感してくれる場はそう簡単になく、それが自分のマルケ州への思いをより強くさせたのだろう。東京から引っ越してきた大阪に、マルケ料理のお店があると知った時は、勝手に運命を感じてしまった。

 大阪の京町堀にある[Osteria la Cicerchia]へ訪れたのは、ある春の夜。「肉詰めオリーブのフリット」や「マルケ州産生ハム、サラミの盛り合わせ」を始めに、「チチェルキアとグアンチャーレのスパゲッティ」など、窓には数々のメニューがシェフの直筆で書かれる。
 マルケを感じるひとときだと思うと、どのメニューを選ぶか、とても迷ってしまった。まずは郷土料理の代表メニューの一つ「肉詰めオリーブのフリット」をいただいた。口に入れると、自分が現地で過ごした場面が断片的に頭に浮かんでくる。そうやって次々とメニューを食べていくうちに、それまで「地味だけどホッとする、美味しい料理」という言葉を、私は曖昧に理解していたかもしれない、そう気づいた。その意味するところを、初めて舌で、心で、感じた夜だった。それは、日々の中にある記憶を呼び起こす美味しさ、安心感や幸福感を思い出させる味わいなのだ。だから多くのイタリア人は、特別な料理ではなく「マンマの料理が一番美味しい」というのではないだろうか? そう思考を巡らせながら、ひと皿ずつゆっくりと味わっていった。

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「肉詰めオリーブのフリット」

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「仔羊のフリットサラダ添え」

 シェフの連久美子さんが、[Osteria la Cicerchia]を始めたのは2012年。さまざまな郷土料理がある中で、マルケ州の料理へ辿り着いたのには、連さんが「スローフード」に興味を持ったことが根源にある。その好奇心と経験が形となった「Osteria la Cicerchia]は、来年で10周年を迎える。彼女の歩いた料理の道を、ゆっくりと辿ってみよう。


[LA BETTOLA da Ochiai]との出会い

「もともとは、お菓子を作りたかったんです」と話し始めた連さんが、お菓子づくりに興味を持ったのは小学生の頃だった。当時、共働きの両親は忙しく、スーパーで食事を買ったり、レトルト食品を食べる日も多かったという。とはいっても、そのことに対して何か違和感を感じるというわけではなかった。ある日、友達の家に泊まりに行った日から、料理に対する興味が芽生える。手作りのカレーやハンバーグを食べ、翌日には友人とその母親とスイートポテトづくり。お菓子をつくるという、初めての経験に衝撃を受けた。「もともとつくることが好きだったので、そこからお菓子づくりにハマっていきました。当時子ども向け雑誌の付録に、クッキーの作り方などがついていたので、父親と一緒にやってみたのですが、それが、なんか楽しかったんですよね。将来は、お菓子職人になりたいと考えるようになりました」
 大学生になってもその夢は心の中で続く。しかし菓子職人としては残念なことに、次第に生クリームが多いお菓子が苦手になってきた。そこから夢は切り替わり、料理人を目指す道が始まる。
「料理の道を選んだ時、実は最初は和食の世界に行きたかったんです。でも当時の和食の世界は、女性が料理人としてやっていけるような世界ではなく、男性社会でした。ちょうどその頃、イタリアンブームが日本で始まって、調理師専門学校の進学費用を貯めようと始めたバイトがイタリアンだったんです。すごく楽しかったし、美味しくって。イタリアンもいいなと思うようになりました」
 大学卒業後、辻調理師専門学校へ進学。調理師免許を取ろうと、普通科へ入学した。基本的に幅広いジャンルの料理を勉強するが、連さんが興味を持ったのは、放課後に開催されるイタリア料理のコース。自分のお店を営むシェフたちが毎回講師として招かれ、料理を教えてくれるコースだ。落合務シェフや片岡護シェフ、そして山根大助シェフや日高良実シェフなど、今では考えられないような錚々たるメンバーが講師として招待された。
「落合シェフが書かれた本がすごく好きだったこともあり、講師で来られることを知って受講したんです。実際に落合シェフの[LA BETTOLA da Ochiai]にも当時食べに行ったのですが、本当に一つひとつのお皿の味が衝撃的な美味しさで鮮明に残る体験でした。デザートも今まで食べてきたパンナコッタやティラミスと全然違う。それで「募集してませんか?」と授業が終わったあとに聞くと「俺のところは、客より店員の方が多いからな(笑)」って断られたんです。でも諦めきれなくて、往復ハガキを買って、どうしても働きたいですと思いを綴って、返信欄に自分の住所を書いて送ってみました(笑)。そしたらシェフから、一度面接においでと連絡があったんです」


[LA BETTOLA da Ochiai]と、長野県での学び

 面接を乗り越えると、[LA BETTOLA da Ochiai]での日々が始まった。想像以上に厳しい現場の中で、連さんは約3年間ここで働いた。「落合シェフについて、いろいろなことを吸収し勉強したい。そういう気持ちで踏ん張っていました」
 [LA BETTOLA da Ochiai]のメニューは、1人前3800円のコース料理のみ。コースの内容は、好きなメニューを組み合わせられる。組み合わせ方次第では億通りもできるのではないかと言われる豊富さだが、一つひとつのオーダーを滞りなくお客様が満足いただけるように厨房の中では戦いが繰り広げられていた。
 3年が経った頃、連さんは次のステップを目指すことに。自分が将来的に、どんなお店をやりたいのか? そう考えを巡らすようになった。そのタイミングで日本にはカフェブームも到来。友人に誘われ、カフェの店長を引き受け、メニューの考案から店のことまで全てを切り盛りする経験をした。でもその後、再び別のイタリア料理店で働いた。

「次の店ではセコンドの担当として8ヶ月働きましたが、辞めて大阪に戻ろうかと考えていました。でもどうせ帰るなら、せっかくだから食材が気になる地域を巡る旅をしてから帰りたいなと考えるようになったんです。そしたら店のオーナーが、『長野へ勉強しに行ってみる?』と言われ、[ゆい自然農園](現在の名前は[たくみの])や[職人館]を紹介してもらいました」
 [職人館]は長野県の信州にあるお蕎麦屋さん。地元で取れる蕎麦粉を使ったお蕎麦の美味しさは間違いなく、最近では全てのメニューが、地元で取れるオーガニック食材を使っているそうだ。オーナーの北沢正和さんは、お店だけでなく食材を使った地域の町おこしなどにも尽力しており、2016年には農林水産省の第1回「料理マスターズ・シルバー賞」の、『全国5人の料理人』に選ばれた。
「それはもう、楽しかったです。朝4時に起きて、山菜取りにいくぞーと誘っていただいて山に入ったり、新潟へ町おこしの手伝いに行ったり。『こういう食材があるけど、イタリアンだったらどう使う?』と聞かれて、メニューを提案したこともありました。住んでいるところは長野だけれど、全国各地に北沢さんと赴く。[ゆい自然農園]でも畑を手伝わせてもらいましたし、種から葉っぱや花まで全ての食べ方を教えてもらったり、どう切ったらより美味しくなるかということや、植え合わせなどたくさんのことを教えてもらいました。今まで都会に住んでいたので、野菜がどうやって育っていくのかも、当時は知識程度にしか知らなかったので、感動しましたね。野菜を作っている人は、その食べ方を一番知っていますから」

 連さんはここで、「地産地消」という言葉を知った。そして、「スローフード」という考え方を知った。

「スローフードってすごいなぁ、と言ったら、『何いってるの。イタリアが発祥でしょう』そう、北沢さんに言われて。そこでぐっと、イタリア熱が戻ってきたんです」
 ちょうど季節は冬になり、[職人館]での滞在も終わりを迎える時期になった。イタリアで、地域に根づいた食材や食べ方、そしてそこに繋がるイタリア人の生活を学びたい、と情報収集を始めることに。するとイタリアにはスローフード協会というものがあり、そこが「Ital.Cook」という学校を運営していることがわかった。
「スローフード協会は、北部のピエモンテ州のブラという街にあるのですが、学校は中部のマルケ州のイエジ(Jesi)という場所にあることがわかりました。1年の授業を通していろいろなことを学べて、そのあと勉強したい人には学校が研修先を紹介してくれて、ステージで研修ができるとわかって。急いで大阪に戻ってきて、費用を貯めようとバイトをふたつ掛け持ちしました」

 イタリア料理から始まって、さまざまなジャンルの料理や食材と出会ってきた連さんは、「スローフード」との出会いにより、イタリア料理へぐるっと立ち戻ってきた。
 
 連さんのイタリア生活が、ついに始まる。


ー3. Osteria la cicerchia シェフ・連久美子さん(2/3) “料理とイタリア”  現地へ渡った料理人のちいさな20の物語ー につづく。


<参考資料>
長野県公式サイト

<Information>連久美子さんのお店
Osteria la Cicerchia

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