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3. Osteria la cicerchia シェフ・連久美子さん(2/3) “料理とイタリア”  現地へ渡った料理人のちいさな20の物語

 2004年、連さんはマルケ州のイエジへ。スローフード協会が運営する学校「Ital.Cook」へ入学した。まずは1ヶ月間イタリア語の勉強に取り組み、2ヶ月目からはイタリア各地のシェフが講師としてやってきて、授業が始まった。
「生徒もみんな料理人や、料理関係の仕事をしている人ばかり。アメリカ人やイギリス人、インド人など、さまざまな国から勉強をしにきていました。まだ日本では、インターネットがちょうど普及してきた、ぐらいの時期だったので、現地のことは訪れるまで全然わからなくて。初めての海外生活はすべてが驚きで、『これは城? え、家?』みたいな感じでした(笑)。マルケ州は丘の上に街がある印象で、坂だらけ。日本とは全然違う風景でした」
 授業はまず、講師となるシェフがレシピを事前に配る。授業までにイタリア語を調べ、準備に励んだ。
「朝はシェフがレシピの説明を。合わせて、各地の郷土料理の内容や、現在食べられている料理について教えてもらいます。午後から実際にそのメニューを作るのですが、生徒もみんなプロの料理人なので、役割分担をして一緒に作っていくんですね。ところどころポイントをシェフが教えてくれて。それが毎日続きます。あとはチーズ工場やサラミ工場へ見学にも訪れました」

 地産地消とはどういうものなのか、その意味や成り立ちを、料理を通して、そして作り手との交流を通して学んでいく。スローフードと聞くと、ファーストフードへの抵抗運動のようなイメージが浮かぶ人もいるかもしれないが、決してそこが主ではない。フードライターの島村菜津さんが現地のスローフード協会で取材した言葉を借りると、以下のような指針がある。


“「運動の軸になる考え方は、会員だけでなくって、会に関わるすべての人々に、ゆとりのある、質の高い食生活を実現することだ。そして、そうした活動を通じて、社会のあらゆる局面に人間性を回復することなんだ。」(中略)
「ひとつ、消えて行きつつある郷土料理や質のよい食品、ワインを守ること。
 ふたつ、質の良い素材を提供してくれる小生産者を守っていくこと。
 みっつ、子供たちを含めた消費者全体に、味の教育を進めていくこと……」”
(『スローフードな人生!……イタリアの食卓から始まる』より)

 いつでもどこでも同じようなものが味わえる現代において、その地域で作られる歴史や土地柄がある料理や食材をいかに守り、味を伝えていくか、そんな意識を持った協会が運営する学校だからこそ、各地の豊かな風土とその味わいを、深く知ることができる。

「3ヶ月間学校で学んだあとは、学校が手配してくれるステージでの実習に参加ができるので、まずはヴェネト州にあるLocanda(ロカンダ)へ行くことにしました。宿泊施設も併設されていて、その1室に寝泊まりして4ヶ月滞在しました。授業でヴェネト州はスパイスをたくさん使うことを知って興味を持ったんです。もともとヴェネト州はインドとの交流があって、サンタルチア港にスパイスが届き、そこからヨーロッパの各地へ広がっていったそうです」

 中世には海洋都市として繁盛したヴェネト州。連さんのステージは、北部ヴェネト州のパドヴァ県にある小さな街、ロレッジャの[Locanda Aurilia]というロカンダで始まった。ロレッジャはパドヴァとカステルフランコ・ヴェネートの間にある小さな町。町を1周しようと思えば、20分くらいで周れてしまう大きさだ。
 連さんが働いたロカンダの隣には教会が位置し、朝になると鳴り響く教会の鐘が、目覚めの合図だった。

「家族経営のお店で、もともとはマンマがシェフとして料理をしていたんですね。今はその息子兄弟がオーナーとシェフを務め、娘も一緒に働いています。マンマはよく店を見に来るのですが、私はイタリア語がまだ完璧ではないので、すごいスピードで話すマンマの言っていることがわからなくて」

 しかし、ある日を境に徐々にマンマと連さんの関係は近づいていった。休日にたまたま店に残っていた連さんを見つけ、「料理を教えてあげる」と言ったのだ。
「マンマは、息子たちにも絶対にレシピを教えないんですよ。墓場まで持っていくと言っているそうです(笑)。なので、教えてあげると言われる度に、これはチャンス!と外出をやめて、マンマの言う通りに料理を学んでいきました。昔の人のシンプルな料理や食べ方を、教えてもらったように思います」
 カーニバルの時期につくる揚げ菓子ガラニを教えてくれたこともあった。薄く伸ばした生地を揚げ、砂糖やアルケミスのシロップをかけた郷土菓子だ。その後しばらくして、ガラニをつくる連さんを見て、シェフである息子たちは「えっ、レシピを教えてもらったの?!」と驚きの表情。「日本人だからいいよって言われて」と話す連さんに、「もしマンマが亡くなってしまったら、久美子に電話してレシピを聞くことにするよ」と、笑いながら言った。

Locanda Aurilia]にはエノテカもあり、ロカンダでの仕事が終わるとエノテカのカウンターに立った。片付けを手伝うことを約束に、1日3杯まで、エノテカで扱うワインを試飲させてもらう。カウンターに立てば、さまざまな客と向かい合い、ワインボトルを開ける。「ロカンダに実習に来た」と告げると、「これは飲んだことある?」とお客さんがグラスに注いでくれた。「今日は結婚記念日だから」「友人が亡くなった献杯に」……エノテカで過ごした時間は、ワインを選ぶ人びとが持つ物語が垣間見える時間だった。
「なぜこのお客さんが、今日このボトルを開けたんだろう? そういうエピソードを聞くのが、とてもおもしろかったですね。思い出のワインなのかな?とか、いつか飲んでみたいと思っていたのかな?とか、そういう風に想像を膨らませていました」

 連さんは帰国後ワインの勉強をし、ソムリエの資格を習得した。


 約束の期間が終わりを迎える頃、次の行き先に思いを巡らせた。その時浮かんだのが、マルケ州の郷土料理を教えてくれたシェフ・マルコさんだった。ウサギのインポルケッタやパスタのクレッシェタィァータ、オリーブのフリットなど授業で学んだ料理を思い返す。学校に講師として訪れたマルコさんの料理は、特に肉料理が抜群においしかった、と。郷土料理に洗練さも備えたひと皿。マンマたちがつくる料理とはまた違う、味わいだった。
「シェフのお店で、ステージで働くことはできますか?」と、相談を受けたマルコさんは「ちょうど独立して自分の店をオープンするところだから、開店する4月になったらおいで」そう連さんを招いたのだった。


ー3. Osteria la cicerchia シェフ・連久美子さん(3/3) “料理とイタリア”  現地へ渡った料理人のちいさな20の物語ー につづく。



<引用文献>
『スローフードな人生! ……イタリアの食卓から始まる』(島村菜津 著/新潮社/2000年)

<Information>連久美子さんのお店
Osteria la Cicerchia

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