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勉強の時間 人類史まとめ3

『暴力の人類史』スティーヴン・ピンカー1


世界はよくなっている?


ここで『サピエンス』『ホモ・デウス』と真逆のことを言っている本を紹介しましょう。認知科学者、心理学者スティーヴン・ピンカーの『暴力の人類史』(幾島幸子・塩原通緒訳 青土社)です。

この本では、先史時代から古代、中世、近代、現代まで、国家や暴力的な組織による戦争や弾圧などで殺されたり、負傷したり、弾圧されたりして不幸になった人たちの数を、時代ごとに数値データ化して紹介しながら、世界がどんなふうに変わってきたかが考察されています。

日本語訳のタイトルは『暴力の人類史』ですが、原題は The Better Angels of Our Nature / Why Violence Has Declined、「我々の本性の中にいる、より良いことを志向する天使的な要素/なぜ暴力は減少したのか」といった意味です。

内容のかなりの部分は、過去の暴力とその犠牲者に関するデータの紹介と分析なので、『暴力の人類史』というタイトルもいいんですが、著者の意図は、「歴史は古代から近代、現代まで戦争や暴力に満ちているけど、近代以降の人類はより科学的、理性的に考え行動するようになってきていて、暴力による犠牲者は減っている」という点にあるので、この本をただ「暴力から見た人類史」と言ってしまうのは違うかなという気がします。     

この本の特色は、人類や世界、地球が直面している問題を告発するタイプの本が多い中で、人類の現状や未来を肯定的にとらえていることです。

多くの学者、思想家がいろんな問題を取り上げて、「人類の、世界の、ここがだめだ」「このままだと人類は、地球は破滅する」みたいなことを言っているのに対して、スティーヴン・ピンカーは「いや、そんなことはない。昔の方が残酷で、戦争や暴力の犠牲者は多かったし、ルネサンス以降の世界はだんだん平和に、非暴力的になっている」と主張します。


常識とは違う歴史を提示するデータ


20世紀だけでも残虐な戦争や支配があったことを知っている人たちにとって、簡単には受け入れられない考え方ですし、2015年にこの本が出版されたときは、多くの学者や思想家、活動家が批判を浴びせたようです。

僕が知っているだけでも、数千万人が犠牲になった二度の世界大戦や、ロシア・東欧で広く行われたユダヤ人の迫害や虐殺、それを大がかりに組織化したナチスのユダヤ人虐殺、ソビエトの残酷な粛正(思想を理由とした処刑です)や思想改造、多くの死者を出したとされる過酷な強制労働、五千万人が餓死したと言われる中国の「大躍進」運動や、暴力的な「文化大革命」、何百万人ものベトナム人が殺されたと言われるベトナム戦争、アジア・アフリカの内戦による殺戮や飢餓、中南米の軍事政権による支配等々、暴力による犠牲者はものすごく多いという印象ですが、ピンカーはこうした漠然とした印象に対して、歴史的・考古学的なデータを提示しながら、実は昔の方がもっと暴力の犠牲者は多かったということを証明していきます。

ひとつキーになるのは、昔と近現代の人口の差です。

原始時代の狩猟採集から古代の農耕、中世の商工業、近代の産業革命や資本主義の発展による大量生産・消費へと、産業や社会の形態が変化・進化していくにつれて、人口は急速に増えているので、人口比で見ると暴力の犠牲者の数は、20世紀の大戦争やジェノサイドでも増えていないどころか、むしろ急激に減っているとピンカーは主張しています。

たしかにこの本に出てくるたくさんのデータやグラフは、時間軸にそって戦争による死者や暴力的な衝突の犠牲者が大きく減少していることを示しています。

先史時代の検証で、発掘された骨から暴力の犠牲になった人とそうでない人の比率を割り出す方法がおかしいとか、データによっては戦争の犠牲者のうち戦死者だけ数えて、一般人の死者を計算に入れていなかったりするとか、このデータの扱い方や暴力の定義がいい加減だと批判する人もいるようですが、一応学術的に算出されたデータらしいですし、その計算法をいちいち検証するのは素人の手に余るので、ここは一応「人口比で見ると、暴力の犠牲者は減っている」という主張を受け入れて、先へ進みます。


暴力が減った理由


次のポイントは、なぜ歴史の経過にそって暴力による犠牲者は減ってきたのかという点です。わかりやすく言えば、それは人類の進化によるということになるようです。

西ヨーロッパでは、ルネサンスあたりから商工業が発達し、科学や経済の時代が始まり、世界を動かしていく力が暴力による支配から、知性や理性による調整へと移行していきました。

カトリック教会と封建領主と商工業者がそれぞれパワーを持っていた中世から、絶対王制の近世へ、やがて商工業者が王や教会から自立して活動する近代へと移っていく過程で、王と封建領主との戦いや国どうしの戦い、カトリック教会とプロテスタント勢力との戦い、血なまぐさいオランダの独立戦争とかイギリスの革命やフランス革命とか、いろんな戦いがありましたが、大きな流れは科学と経済がいろんなことの基準になり、暴力よりも法律や社会制度でものごとを調整していく国家・社会ができあがっていきました。

印刷技術が発達して本や新聞・雑誌などがたくさん出版されるようになり、啓蒙思想やいろんな情報が世の中に広がり、人々の知的レベルも上がって、法律遵守や権利の意識を持つ人が増え、知性・理性による判断でものごとが決められるようになったことも、暴力の減少に大きく貢献したようです。

この17世紀から20世紀にかけての400年は、大航海時代から帝国主義の時代を経て、西ヨーロッパの仕組みが世界中に広がった時代でもありました。

アメリカ大陸やアジア・アフリカの侵略や植民地支配とか、暴力的なこと、残酷なことも色々ありましたが、ヨーロッパの先進的な文明が広がったことで、世界が近代化の流れに乗ったということができます。

19世紀から20世紀にかけて、議会民主制や資本主義経済がヨーロッパから世界に広まり、地域差やレベルの差はあっても、世界中がこの近代型のシステムで運営されるようになりました。


内なる悪魔を退けて天使に近づく


もちろん問題はたくさんあります。

スティーヴン・ピンカーも、問題がないと考えているわけではなく、人間の中には悪いことをしようとする悪魔と、よいことをしようとする天使が棲んでいると言います。

悪魔的な部分はたえず他人や他の勢力を征服して支配したり、破滅させて利益をごっそりいただこうとしたりします。他人に被害をこうむったと感じると、その何倍も仕返ししようとしますし、相手が無力で何もしなくても、サディスティックな快感を味わうためにいじめたり殺したりします。

こういう悪魔的な部分をいかに理性で制御するかが大切だというのが、認知科学者・心理学者らしいピンカーの結論です。

なんだか前半の「世界はよくなっていて、暴力の犠牲者は減っている」という強烈なインパクトのある主張に対して、常識的な主張ですが、まあ、考えてみればそうだよねというところでしょうか。



遠い他人の痛みを感じられるか?


こうしてみると『暴力の人類史』に難癖をつけることもできるし、ある意味常識的でもっともな主張だと評価することもできますが、それだけではつまらないというか、この本にはもっとその先にあるもののことを考えるためのヒントが隠れているような気がします。

ひとつは、世界がよくなってきたのはある意味事実だとしても、この先もよくなっていくのかということです。

よくしていくために人間の天使的な要素を伸ばそうというのはありだとしても、それでほんとによくなるのか? 何か大切なものが見落とされてないか?

まず世界をよくしていこうとするのが誰かという問題があります。

人を殺してはいけないとか、暴力を振るってはいけないとか、人を征服したり支配したりしてはいけないということは、多くの人が考えるでしょう。

しかし、人間はただ個人で生きているわけではありません。企業とか地域とか国家とか人種とか社会階層とか、いろんな組織や集団に属しています。そこにはいろんな価値観があるし、いろんな利害があり、経済力の差や武力の差、技術力の差などいろんな格差があります。

先進国の国民とか大企業の社員は『暴力の人類史』に賛成するかもしれませんが、アジア・アフリカ・中南米の貧しい地域の貧しい国、貧しい階層の人たちはどうでしょう?

20世紀以降、暴力が減って生きやすくなったのは先進国で、アジア・アフリカ・中南米などの国々はそうでもありません。暴力的な支配や紛争はほとんどこうした地域で起きています。

『暴力の人類史』に賛同する人たちは、「それは欧米流の近代化が遅れていて貧しいから、暴力に依存する古いカルチャーが残っているからであり、先進国を見習って近代化していけば、経済発展できて豊かになれるし、豊かになれば暴力的な支配や問題解決も少なくなっていくだろう」と言うかもしれません。

たしかに、中国やインド、タイやインドネシアなど、近代化を進めて経済発展している国があるし、そこでは富裕層や中流層も生まれています。先進国を見習って努力すれば豊かになれるし、近代化していけば暴力への依存は減っていくだろうからがんばればいいと、彼らは言うかもしれません

しかし、ものごとはそう単純ではありません。


世界は巨大でややこしい


先進国が主導して世界に広げてきた自由主義経済、資本主義経済は、自由競争が基本原理です。自由競争では強い者が勝ちます。

自由主義にそって合法的に取り引きしても、強い経済力、強い通貨を持つ国の、強い経営力を持つ企業は、弱い国から安くモノや労働力を買うことができ、ますます豊かになりますが、弱い国は貧しいままです。

弱い国の中にも、豊かな者、強い者と貧しくて弱い者の格差が生まれ、広がります。政治的な支配層は先進国から賄賂をとったり、国際機関の援助を私物化したり、先進国や企業の仲介役になる企業を支配したりすることで、富を築いたり権力を振るったりします。豊かになるのはこうした権力者や先進国の下請けになる企業だけで、大部分の国民は貧しいままか、どんどん貧しくなっていきます。

貧困から抜け出して起業家になったり、先進国に留学して学者や法律家になったりする人もいることはいますが、それはそんなに貧しくない貧困層の人たちであって、最も貧しい層は教育も受けられないので、そうした泥沼から抜け出すことはできません。

こうした理不尽な状態に不満を抱いて反政府的な行動を起こせば、政府の警察や軍に弾圧されます。政府に対抗できるのは、宗教的なテロリスト団体や麻薬の製造販売など犯罪で稼ぐギャング的な組織だけです。

こちらも武力を持ち、地域を支配したり、住民に暴力を振るったりします。アフリカでは国の権力を巡って部族間の闘争が激化し、ジェノサイド的な虐殺があちこちで起きています。

アジア・アフリカ・中南米のこうした暴力や支配は、グローバル化した経済の下、自由な競争原理の下で、強者による弱者の支配が続くかぎり、構造的になくならないでしょう。

もちろん自由競争は先進国の中、先進国の間でも起きていますから、先進国だからといって全国民が勝ち組でいられるわけではありません。先進国ではコストが高いので、製造業のように19世紀から経済を牽引してきた産業は衰退しています。

先進国の大手メーカーやその下請け企業は、コストの安い後進国で製造するようになったので、先進国の製造業で働く人たちの多くが職を失いました。彼らは後進国に仕事を奪われたと感じていて、政府や大企業を憎む以上に、アジアなどの新興国を憎んでいます。

建設現場や倉庫、飲食店などの、もっと単純な労働で稼いできた人たちは、後進国からの移民に仕事を奪われたと感じて、民族的な憎悪を募らせています。こうした被害者意識や憎悪を抱く国民が増えた結果、理性より感情に流されて争いを起こす人たちが増えました。

それがアメリカでトランプ政権を支持した層の中核をなす人たちですし、ヨーロッパの国々でもそうした人種的に不寛容な人たちが増え、極右政党の台頭を招いています。

こうした格差から生まれる憎悪は、新しい暴力や支配をもたらしつつあります。21世紀の今でも、この新しい暴力や支配は、20世紀の世界大戦とは違った、新しいタイプの戦争や虐殺を生んでいますし、その犠牲者は増大していこうとしています。

ソ連崩壊からの経済発展を支えてきたグローバリズム、オープンにウィン・ウインの関係を発展させていこうという動きは衰え、大国はそれぞれの利益のために保護主義へ傾斜し、国家間の対立は経済から安全保障つまり武力衝突、戦争へとエスカレートしつつあります。

こういう状況で、はたしてピンカーの言う「善なる天使」は機能するでしょうか?

次回はこの観点から20世紀から現在までの暴力について、もう少し詳しく考えてみたいと思います。

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