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三千世界への旅 魔術/創造/変革2  魔術的ルネサンス2

魔術的科学から自然科学へ


山本義隆によると、ピコ・デラ・ミランドラは魔術を「全自然の認識を獲得するもの」と定義しています。

ただし、「自然哲学を絶対的に完成させる」自然魔術に対して、「ダイモン(デーモン、悪魔)の業と権威にもとづいている」邪悪な魔術があるとして、科学的な魔術と悪魔的・妖術的な魔術を区別しています。「自然魔術はピコにとって『神的で健全な術』であり、許されるべきものであった」のです。(『磁力と重力の発見2 ルネサンス』P.346-347)

ピコ・デラ・ミランドラと同様、15世紀のイタリアに生きたイタリアの思想家フィチーノは、土・水・空気・火を四元素とする古代ギリシャ的な物理・科学の知識を継承していましたが、それ以外に第五素として精気というのがあると考えていました。

「この精気は世界の大いなる身体と霊魂の間に存在する媒質であり、星辰やダイモンはそのうちにあり、またそれによって存在する。」ただし、「われわれの精気は、事物の感覚をとおして知られる諸性質によってばかりではなく、それ以上に事物に天から植えつけられた。そしてわれわれの感覚には隠されている。」(『磁力と重力の発見2 ルネサンス』P.350)

この「隠されている」というのがポイントです。フィチーノなど当時の思想家にとって、未発見の論理や科学的真理は、彼らにとっては「隠されている」神秘の力でした。


「進歩・進化」という考え方


今日、科学者も科学に親しんでいる一般人も、自分たちの身のまわりも含めて、この宇宙にはまだ解明されていないことがたくさんあると考えていますが、同時にそれは科学的に研究していけば解明することができると考えています。

しかし、こういう科学の進歩・進化という考え方は、ルネサンス前期にはまだ存在していません。当時は古代ギリシャ・ローマという過去の文化・技術を再発見し、そこから学んでいた時期ですから、自分たちが時代の最先端を走っているとか、新発見や新発明によって、世界に革新をもたらしていくといった意識はなかったのです。

しかし、15世紀のルネサンス前期が古代の技術の再発見、その応用としての魔術が普及した時代だったとすると、16世紀のルネサンス後期には魔術思想の脱神秘化が見られるようになったと山本義隆は言います。

イタリアにはピエトロ・ボンポナッツィ、イギリスにはレジナルド・スコットという思想家が現れ、自然のはたらきに基づいた「自然魔術」を提唱し、近代から見るとより自然科学に近い理論や技術が広がっていきます。


イギリス経験主義の先駆


山本義隆はこの後期ルネサンスの考え方について語るにあたって、実はそれが13世紀のイギリスの思想家ロジャー・ベーコンによって先取りされていたことをまず紹介しています。

ベーコンの作品とされる『魔術の無効について』という文書で、彼は「自然や技術は十分なものであるゆえ、私たちは魔術を望むには及ばない」と語っているとのこと。

「アリストテレスの合理的自然学を受け入れて経験学を提唱したベーコンは、自然界に見られる不思議な事実にたいして『魔術師たちはさまざまな呪文を唱え、呪文の力によってこのことが起ると信じている。しかし私は呪文を信じず、自然の驚くべき働きが鉄に対する磁石の働きと類似であることを見出した』と指摘してのけた。」(同P.510-512)

続いて、ベーコンに影響を受けた16世紀イギリスのジョン・ディーが、占星術を数学的に解明する研究など、自然魔術を数学的な理論や技術へと進化させた先駆的な科学者として紹介されています。

このジョン・ディーはイェイツの『魔術的ルネサンス』ではイギリス・ルネサンスの魔術思想のリーダーで、シェイクスピアにも多大な影響を与えた人物として紹介されていますが、自然科学の観点から見ると、かなり違った思想家に見えてきます。

興味深いのは、イギリスが経験論的な自然科学の方法論において、けっこう先進的だったことらしいことです。ルネサンス期にはイタリアが先進国で、フランスやドイツ、イギリスなど北へいくほどルネサンスが遅れて始まったというイメージがあったのですが、13世紀のロジャー・ベーコンから16世紀のジョン・ディーに至る、実証主義・経験主義的な方法論を知ると、後にイギリスが科学技術や経済で世界をリードするようになる兆しのようなものが感じられます。


延長ではなく飛躍


ただ、ルネサンス期の魔術を、科学の先駆的な状態と見るだけなら、その後魔術は表舞台から消えて、科学そのものが人類の進歩や社会の発展を牽引するようになったわけですから、いまさら魔術に注目する必要はないわけです。

僕がここで魔術について考えたいのはそういうことではありません。これまで何度も言ったかもしれませんが、僕が注目したいのは、人がまだ見えていないものを見ようとするとき、明らかになっていないことを解明しようとするときに人の中で何が起きるか、人は何をするのかということです。

それまでの科学的な理論では打開できない新しい理論が必要なとき、既存の理論をいくらこねまわしていても、新しい理論は生まれてきません。新しい観点、発想が必要です。

新しい理論が古い理論の延長線上ではなく、崖から崖へ飛び移るような飛躍が必要だとしたら、その新しい理論はそれまでの論理的な操作からは生まれないのです。


突破を阻む固定概念


たとえば今、人類にはこんな問題があります。

科学や経済的な合理性を追求することで、人類が、社会が豊かになったと同時に、地球規模で環境が破壊されつつあるとしたらどうするか? 

進歩して豊かになったはずの世の中に、地域的な、社会階層的な格差が広がり、ごく限られた人たちが多くの人たちを支配して、富を抱え込み、王侯貴族のような暮らしをしているとしたら、それは進歩した世界と言えるのか? 

それは古代や中世への退歩ではないのか? こうした状態から脱却するために、人類はどうしたらいいのか? こうした状態をもたらしたのが、近代の科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みだったとすると、同じ考え方でこうした状態から抜け出すことはできないんじゃないか? 

これまでこの「勉強の時間」で検討してきたのは、ただこうした問題が起きているということではなく、それを生み出したのが科学的・理性的・合理的な考え方であり、同じ方法論でいくかぎり、解決はできないんじゃないかということです。


古い概念を打破する


僕が魔術について考えようとしているのは、歴史上人類が大きな変革を実現したとき、どんなふうにそれまでの常識や支配的な思想を乗り越えたのかということです。

たとえば今世界を支配しているのは、ヨーロッパから生まれた科学的・理性的・合理的な方法論ですが、これは中世末期、ルネサンス期で言うならローマ・カトリック教会の教義やスコラ哲学にあたると見ることができるかもしれません。

こんなことを言うと、「お前は科学的な方法論を否定するのか? それじゃお前は科学より魔術の方が正しいとでも言うのか?」と言われるかもしれませんが、もちろん僕が言いたいのは中世の魔術の方が近代の科学より正しいということではありません。

今世界の企業や国家が人材や資金を注ぎ込んで開発している、AIや生命科学や宇宙科学などの先端テクノロジーは、人類の未来を切り開く素晴らしい科学だということになっているけれども、一方で地球が人も動物も住めない星になりつつあるわけで、今の科学と経済と政治の根底にある考え方には、根本的な問題があり、その考え方の延長線上でいくら考えても、この問題は解決できないんじゃないかということです。


突破口としての魔術


中世には絶対的に正しいとされていたカトリック教会の教義や組織の決定が、実は根拠のない支配の仕組みだったように、科学と経済がリードする今の世界も、実は欠陥のある仕組みによって支配されていて、まだ私たちが知らないもっとまともな考え方や仕組みがあるんじゃないかということです。

人類にとって突破口となるような革新的な考え方があるとしたら、それは中世末期の科学のように、カトリック教会から異端的な魔術と見られたり、革新的な人たち自身も自分たちの方法論を危険で異端的と感じたり認識したりしているかもしれません。

そういう観点からもう一度フランセス・イェイツの『魔術的ルネサンス』を振り返ってみると、革新的な考え方がどんなふうに現れたり、認識されたりするのかについて、いくつかヒントを見つけることができます。


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